mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

これまでのPC作業が全部パーに

2024-09-17 09:15:19 | 日記
 ショッキングな出来事が起こって、意気消沈している。PCがハードディスクを認識しなくなった。ちょっと一時的に片付けたりしたときに、何か衝撃を与えたらしい。ここ十数年のデータがすべて入っている。書いた文書だけじゃなく、手紙類も写真もことごとく、そのハードディスクに保存していた。いつであったか忘れたが以前使っていた百メガほどのハードディスクが満杯になり、2テラバイトのハードに変えた。
 たまたまわが家にパソコンなどに詳しい若い人が来ていたので、診てもらった。ハードディスクに電気は来ているらしいが、すぐに途絶える。ひょっとすると通電した後ディスクの接続部か内部が壊れてしまったのかもしれない、と。うまくすると、ハードディスクの記憶装置を取り出して、別の装置を使ってデータを読み出せるかも知れない。
 というので、ご近所の電気量販店にもっていった。お店は預かってデータを呼び出せるかどうかチェックしましょう。そうするのにどれくらいかかるか、費用がわかったら電話でお知らせしますという。
 やきもきしても仕方がない。にもかかわらず私の気分は、すっかり沈んでしまった。家へ帰ってからも何もする気がなくなり、ソファに横になってTVを観ながら寝入ってしまった。起きてからもボーッとして過ごし、大相撲を眺める。客人が持ち来たって飲み残したワインをカミサンが飲む。私にも「飲むか?」と訊くのは、ふだん5時半を過ぎないと私がお酒を飲まないからだ。「うん、飲む」と応えてきこしめす。
 ああ、甘いのに重みがあって味が深いと昨夜は感じたのに、甘いともうまいともわからない。ああ、これくらいショックだったんだと、あらためて思う。
 でも、なんでだろう。なんで意気消沈するか。
 2007年からのブログの記事も、全部入っている。写真も、その頃からの分を収めていた。今月初めから書き始めていた知人Kさんの「依頼文書」への返信も、A4版で10ページを超えていたのが、全部フイになった。そうした労力が徒労に帰したことが、打撃なんだろうか。
 診立ててくれた若い人は、データを2台のPCの他にハードディスクの三個所に保存しているという。また、据え置き型のハードディスクは壊れやすく、いまは1テラバイトのUSBメモリーを使っている。これは衝撃にも強く防水も効いているから、値段は高いが……とこちらの懐具合も気遣ってくれた。それを聞いたとき、私はハードディスクが壊れるとは、まったく思ってもいなかったことに気づいた。どうしてだろう。据え置き型のそれは、別に電源もとる。ということは電源の入らないUSBメモリーに比べると故障の可能性は高いはずなのに、PCと別個というだけで壊れないと思い込んでいた。だから、外部ディスクに保存すれば、もうそれだけで十分と思っていた、その自分の迂闊さがあからさまに自覚されて打撃だったのか。
 でもねえ、人生の一期一会ってことは、日々やっていることが、それっきりで消えたからといってがっかりすることはないよ。またやり直せばいいじゃないか。「依頼文書」への返信にしても、また書き直せばいいじゃないか。もちろん覚えていることも忘れていることもあろうけれど、書き直すってときにまた、改めて意識したり発見することもあるかもしれないじゃないか。やることなすこと、何一つ無駄ってことはないんだよと、これまた無意識の胸の奥からの声も聞こえる。それに役に立たなくってもいいじゃないか。人生そのものが壮大な徒労っても言える。何かの役に立つかどうかって考え方の方が、狭い了見に人生を限ってしまってるんじゃないか。そう思うと、徒労もオモシロイと受けとる方が、充実感がある。そうも思える。
 でも考えてみると、外部ディスクの故障ということを思ってもいなかったことが、もう私が生きてる時代じゃないんだと告げているように感じられる。ディスク(のデータ)は(うまくすれば)修復できる。できなくても、これまで書き散らしてきたものを、まとめてゴミに出したようなことだ。そうか、ワタシが彼岸に渡れば、全部こうなる運命だ。なにを生前始末したからと言って落ち込むのよ。そうか、向こう岸からみれば、意気消沈することってのが、どれほど近視眼的かよくわかる。これほどの超越的、かつ一人称的な、現在の対象化は、ない。ふふふ。
 いや喜んでいる場合じゃない。まず、Kさんに、またしばらくご返事が送れますって断らなくちゃならない。メールを送信した。