mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

コミュニケーションの取れる規模

2024-09-16 12:12:27 | 日記
 ロビン・ダンバー『宗教の起源』(白揚社、2023年)を読んでいて、オモシロイ記述が目に止まった。
 250の信者集団(信者総数5万人以上)を、小集団(信者総数約40人)、平均集団(約150人)、大集団(約500人)、メガチャーチ(2000人超)の、規模の異なる四つのカテゴリーに分類した最近のデータ分析が掲載されていた。大規模な教会ほど合計では多額の寄付が集まるし、比較的人数も多いから共同体が大きくなっても内部の人間に十分手を差し伸べられるはずなのだが、その割りに信者は集団になじめない傾向にあることが分かったという。
 彼は、50人までの「ファミリー・サイズ」、150人までを「パスター(牧師)・サイズ」、350人までを「プログラム・サイズ」と呼び、人数が多くなればなるほど運営が分散型から集中型に移っていくそうだ。ファミリー・サイズならば、指導者をもたない民主体制でも機能するが、パスター・サイズになると、誰か指導者を務める必要があり、プログラム・サイズに突入したら、牧師一人では手に余り、集団指導体制が求められると記している。これは、国民国家に隆盛の「権威主義的支配」の必然性をも感じさせる。
 これは学校に於ける「かかわりの規模」と照らしても、経験的に腑に落ちる。ファミリー・サイズというのが、さしずめホームルーム(クラス)である。担任が40人ほどの生徒とよろしくやっている図を思い起こす。
 パスター・サイズは、教職員集団がそれに当たる。教員が60~70人、そのほかの職員スタッフが20人くらい。この規模になると、たしかに牧師ならぬ指導的な役割を果たすリーダーが必要となる。
 そして、プログラム・サイズというと、一学年の生徒数、約400人であろうか。こうなると、集団全体を動かすシステマティックな取り組み、つまりプログラムが必要になる。学校全体となると、メガサイズに相当するか。
 学級担任をしている教師は、ファミリー・サイズのセンスにどっぷりと浸っている。いわば個々的な人格が、それだけで絆となる。
 そのセンスは、教職員集団全体の規模になると違ってくる。牧師(リーダー)を認め、支える「かんけいの規模」。となると、単純に、言いたいことをいい、各人勝手勝手に働いていても、それなりに関係が保てるというわけにはいかない。教会は牧師という「権威」が前提にあるから、信者がそれを支えるのは、謂わば必然である。だが、学校の教職員集団では、そうはいかない。校長や教頭という管理職が「権威」を認められているとは限らない。管理職という「権力」は認めても、教師という「権威」は認めないというのが、平教員との普通の関係である。だから学校では、職階による序列よりも、知的リーダーが好まれる。リーダーが必要というのは、異なる「しこう(嗜好・思考・志向)」が錯綜する事態を上手に(ひとつに)まとめることが求められる。構成するメンバーは、我が「しこう(嗜好・思考・志向)」を抑え、リーダーのイニシャティブを補うことになる。知的権威をもつリーダーが歓迎される。
 しかし、学校という規模や生徒を含む学年団となると、牧師・リーダーの個人的「権威」だけでは、人々の動きを保つことはできない。必要とされるプログラムというのは、年間計画からその立案・決定・実行のプロセスまで、ことごとくしっかりと組み立てられ、しかもそれが周知されていなくてはならない。つまり決定過程を通して「(プログラムによる)権威」をつくりだし、共有するのだ。
 さて、そこで知人・Kさんの「依頼文書」の提示するいろいろなモンダイが関わってくる。
(1)まず生徒が気儘に振る舞って教師の抑制に耳を傾けようとしない。一つの学年が320人もいたり、ひとつの学校の生徒が1000人を超えるという規模だと、「プログラム」が確立していないところでは、当然、バラツキが生じ、それが混沌となって周辺に波及する。
(2)教師がリーダーを生み出そうとしなかったり、プログラムによって「権威」を創り出さないと、教職員集団も生徒も、まとまらない。
(3)そこでの「混沌」を、教職員それぞれの言説のせいと考えると、ますます混沌に陥る。なぜなら、言説は必ずしも、その人の「しこう(嗜好・思考・志向)」を表してはいない。当人さえ気づかない無意識が作用して、取り繕ったりしているからだ。
(4)管理職が、上意下達という管理的な指示差配の貫徹しか意識していないと、いつか文科省が(儀式に於ける)「国歌斉唱」に際して「口パクのチェック」を指示したように、上司の「権威」そのものまでぶち壊しにしてしまう。管理的「権力」を認めていてさえ、反発してしまう。
 上記4点の末期的症状が、Kさんのエッセイでは描かれているように思った。「教師仕事がブラック」というより、そうした現場におかれた生徒は、すっかりデスペレートになって、ますます学校や教師に反抗的に振る舞うに違いないと感じた。
 それを読んで論評するとき、ロビン・ダンバーの指摘を組み込むには、ワカラナイことが多いと、おもった。