mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

天・地・人の結界

2024-04-10 07:59:54 | 日記
 アカデミー賞をもらった映画『オッペンハイマー』を観た。前後するが、この映画が賞をもらったこともあってか「町山智浩のアメリカを知るTV」でも、観光地「ロスアラモス」を訪ねて紹介していたから、原爆開発とアメリカ人の心情については、もうイヤになるほどの感懐をもっていた。どうそれが変わるのだろうかと思いながら映画館へ脚を運んだ。
 ストーリーでは伝えられない思いを表現しようというのであろう、ほんの一欠片の存在であるヒトと大宇宙とがひとつながりのモノという文脈イメージを映像にして見せる。それを視覚から採り入れて頭で考える回路さえも不十分といわんばかりに、聴覚と皮膚を通して震わせる大音響がぶるぶると身体に響く。ドルビーシステムの映画館ならではの作品なんだと感じた。
 ひとつながりのモノという文脈イメージは、こうして言葉にしようとすると、一度分けなくてはならない。文脈の一つは、量子論が語る素粒子の世界からヒトへのひとつながりであり、もう一つはそれをとらえるヒトたちの乗っている舞台、すなわち地球であり、さらにもう一つは地上でのヒトの所業とそれにまつわる原爆開発の切り裂く「世界の諸相」である。
 これまで私が「イヤになるほどの感懐」と思っていたのは、最後の一つ。原爆開発がヒトの心裡にもたらす「世界の諸相」である。原爆開発を始める動機となるWWⅡの戦争、それに至る過程に誕生した、後に冷戦と呼ばれるイデオロギー的な対立。つまり、ヒトの世界の確執が軸になって核エネルギーを手に入れる諸相だ。これまでの物語は、ほぼこれに尽きる。
 この端境を踏み越えて『オッペンハイマー』はこれをさらに一步先へ進めたか。そう問うてヒトの世界の確執を大宇宙のエネルギーを手にする次元で眺めたとき、いかほどにヒトが小っちゃいものにみえるかという発見に到る。映画そのものでは、この点がそれほど明確に提出されてはいない。わずかに、核爆発の連鎖反応が大気の大爆発に至るのではないかというオッペンハイマーの「懼れ」に表現されるだけであった。それも開発が成功すると、大気の爆発は杞憂であったとして忘れられていっている。せいぜいそれに代わって、星の終わりが爆縮を伴うブラックホールを思わせる映像として表されるだけであった。
 ヒトを主体としてこの映画を読み取ると、全体を通して貫くのは大宇宙のエネルギーをヒトが手にするに値するのかという問いである。それは、天・地・人の端境を際立たせてヒトの世界を大宇宙に位置づけようとする物語りである。そう位置づけてみると、ヒトの争いはほんとうにケチな諍いに過ぎず、バカだなあヒトはって感じる。映画に登場してそう感じていると思われるのが、アインシュタインとオッペンハイマーの二人だけというのも、印象的であった。
 さて、ここを起点にして、どう改めてヒトを人類として一つにまとめる理念を紡ぎ出すことができるか。いや、WWⅡの終結時点で(戦勝国連合で)一つになったと思ったのは、敗戦国民のワタシだけであって、この映画を観る限り、すでにその時、再び分裂対立への扉は開かれていた(いやもっと前から開かれていたのだが、ナチスドイツが登場したために棚上げされたに過ぎなかったというのが、リアルな真相だね)。一つになるどころか、核エネルギー所有の広まりに伴って、ほんとうに行くところまで行かなければヒトは懲りない(と映画の登場人物の誰かが呟いていたように思った)のかもしれない。
 この映画『オッペンハイマー』が制作され、アカデミー賞を受けたということは、やっと今になってアメリカでヒトの卑小さが(大宇宙に照らして)理解され始めたのか。それとも、アメリカに於ける2016年以来のトランプ現象で、WWⅡで浮き彫りになった(平和と人権という)「人類史的理念」の二重底が割れ、エゴセントリックな振る舞いが大手を振って闊歩する世界のおおっぴらな幕開きに、それではどうにも人類が立ちゆかないだろうと警鐘を鳴らす気風が(今になって)芽生えたのか。
 それを私は、地動説時代が終わって人動説時代が始まったと謂ってきた。この映画『オッペンハイマー』はひょっとすると、その幕開けを画するモノになるだろうか。いやそれにしては、ちょっと主張の焦点がそこまで達していないのかな。私の勝手読みが先行しすぎているかも知れない。

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