mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

理屈は人間要素を典型化してしまう

2024-03-22 08:35:37 | 日記
 お彼岸の中日は20日だった。去年は21日、そうか今年は閏年だと、いちいち頭の表層に持ち上げて意識する。いや、そうしていてもついつい忘れるというか、どこか片隅に追いやってしまう。いまは歳のせいにして、忘れることに拘りを持たないで済ませている。若い頃は忘れることがなかった(と思っていた)。中高年になった仕事現役の頃は、気づいたときにメモをするようにした。ということは、一時気づいても忘れるワタシに思い当たることがあったからだと今は思う。
 この忘却を経年劣化のせいだというのは、気づいたら忘れないのが理性的というか理知的認識と典型化しているからである。私が「人間要素」と呼ぶコトは、それは人によって異なるし年齢によって違ってくる。あるいは状況が加重であるかどうかによっても、その「典型」からズレてくる。
 ところがたとえば原発や建築や経営の専門家が戦略的なコトガラを語るときの「人間」というのは典型化してイメージしている。そうだよ、そんなことはニンゲンのやることじゃないよと政治家の振る舞いを批判するときのワタシは、ニンゲンを典型化して「人間の規範」から外れていると言っているように、恒にヒトは「ニンゲン」や「キハン」というモノゴトを概念化してみていることによってコトバを共有している。もしこれさえも、時と場合と人によって一人ひとり違うと厳密に考えていると、とても面倒であるだけでなく、言葉を交わすときに違ったコトバを用いなければならなくなる。人のコミュニケーションは、大雑把に概念化して取り交わされているコトバをすりあわせてズレを補正し、あるいはその意味するところを丁寧に問いただして、共有概念をつくりあげている。それが動態的なコトバをつくっており、それを適宜自分の都合に合わせ、あるいは都合のいいように遣って、人びとは意思を取り交わしている。
 専門家が、自分の専門とする領域のことを理知的に解説するときには、人ばかりか社会についても、あるいは他の専門領域のことについても、やはり典型的な概念をベースに置いて展開するのは言うまでもない。だが現実にそれが、たとば原発のように構築され、運用される段になると、典型的な概念ではないニンゲンが登場する。妙な言い方かも知れないが、社会的に通用する概念のときは大雑把に一括りにして「人間」と言ってしまえることでも具体的な人として現れたときには、大雑把では済まない場面が出来する。いや殊に原発のように「危ない武器」を扱うときには、厳密な用心深さが、細かい振る舞いにも要求される。当然事前にレクチャーをし、マニュアルを作成して習熟させ、ニンゲンの行動を意識的に「危ない武器」にそぐうように規制するのであるが、それすらもいつしか忘れてしまうヒトのクセがあることも「人間要素」には欠かせない。
 殊に厳密な振る舞いを要請される場面では、古来職人や芸事の師匠らがコトバにならない技を盗めと言っていたように、身体が知らぬ間にそれを体現するほどに繰り返し心底において習熟する高度な熟達を必要とする。そこには己のワタシに対する「見切り」とセカイに対する「達観」が介在し、それが相乗して「慎み」が生み出されている。そう、言ってもいいであろう。
 ところが、現代社会の日常はそれとは全く反対の人の気性を育てている。規制を取り払い、欲望を解放し、自己実現をめざすという(よくわからない)時代の風潮は、それだけで「慎み」を要する人の振る舞いを崩してしまう。つまり現代を生きる人は、我が身を引き裂く二つのベクトルを同時に一つ身の裡に抱えて社会的仕組みに適応していかなければならない。だから、たとえばあなたがもし原発を推進しようとする立場にあれば、そうしたリアル・ニンゲンの相剋をも「人間要素」として抱懐していなければならない。
 市井の老爺は経験則的に、ヒトというのは概念通りとはいかないことを知っている。レクチャーしマニュアル化し、習熟するための研修をしたからといって、その通りには身体が動かないことを(ことに歳をとってからは)身に沁みて感じている。もはや典型化して人を見るというよりは、日々の暮らしそのものが社会的スタンダードから外れていることもあって、こぼれ落ちてゆくヒトの在り様を哀切な思いで見ているから余計に、専門家の前提にしている「人間認識」に危うさを感じるのである。
 どちらがイイとかワルイとかいうのではない。科学的知見を積み重ねて、今ここに出来上がっている世界の上で私たちは暮らしていくほかない。だったらせめて、プロメテウスの盗んだ火の延長線上にある相対性論的火を扱える「ひと」になるまで、今しばし、それを用いるのを控えるのが自然存在としてのヒトのありようではないか。その「ひと」になる日が来るかどうか、今私にはわからない。
 いやむしろ今人類は、「ひと」にならない方向へ舵を切ったようにさえ思える。ウクライナ戦争、ガザに対するイスラエルの暴虐、それをあしらうトランプやバイデンの振る舞いは、もはや「典型」的な理念をも振り捨てて、ヒトとして我が身を守ることしか眼中にないところへ人類は踏み込んでしまったように見える。デジタル化が、それを大いに加速している。もはやヒトの手には負えない人間の世界が闊歩し始めたのかも知れない。

コメントを投稿