mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

十年の時代層の大きな変化

2024-02-23 07:02:36 | 日記
 今日(2/23)は、亡き末弟の生誕74周年。10年前の4月に他界した。64歳、若かったなあ。長くアウトドア雑誌の編集者をやってきた。山とスキー、その延長のキャンプや川遊び、さらにその延長のスキー場の設計など、門外漢の私からみていると、仕事だか遊びだかわからない活動を手がけ、それに全力を傾けていた。
 戦中生まれ戦後育ちの私からすると、アリとキリギリス、そんな生き方をしていると碌なもんにならんぞと身の裡から声が出てしまうような生涯であったが、時代全体を振り返ってみると、まさしく戦後日本の辿った径庭の、社会的な(物質的)成熟を十分に吸収して、人が生きるってことに体現していたんだなあと、振り返って思う。日本が世界経済の牽引役を果たしていると錯覚する黄金の1980年代は、まるまる末弟にとっては而立の30代。その余韻の90年代は不惑・40代、21世紀に入っての知命・50代を送る人生においてアウトドアは、高度消費社会の余剰を真っ正面に据えた仕事であったなあとあらためて思う。
 ふと思い出して、末弟の食道癌が発見された時から他界するまでの5カ月間の彼との遣り取り、彼とやりとりしたメール、あるいは彼にまつわる兄弟など親族間の遣り取りをひとまとめにしたプリントを取り出した。A4版横書き、2段にわけ9ポの文字で60ページ。ざっと400字詰め原稿用紙で360枚ほどあろうか。それと、没後1年経って、同じ年になくなった母と長兄のことを記し纏めた『花のあかりたてまつる』を開いて末弟の関連部分を読んだ。こちらは、「順三君のこと――ご報告と追悼」と題して17ページにわたって葬儀のこと、その後仕事仲間が主催して行った「偲ぶ会」のことなどを記している。もっぱら私の記録癖の所産であるが、読み返してみると改めて、彼の仕事というのは、人とのつき合いであったなあと感嘆する。アリとキリギリスなどと否定するのは、人が食べるために生きていた時代のこと。仕事のためですらなく、生きていることを堪能するというか、謳歌するというか、存在し、人との関わりを紡ぐことに全力を投入する。それこそが人生ってものさと彼が告げているように感じる。
 十年経って、今の時代に彼の人生をおいてみると、アウトドアへの「しこう(嗜好・思考・志向)」がますます強くなるとともに、現実には逆に、それらがヴァーチャルに拡散され、実際に身体を使い、手足を使って大自然に分け入っていくのとは違う方向へ、走り出しているように感じる。これは私が年を取って、そういう領域から遠ざかっているからそう感じるのだろうかと、我が身の偏りを気にかけながら見計らっているのだが、そうではないのではないか。ヴァーチャルというのは、AIとデータの交錯によって生み出された社会的な潮流が、ヒトの感性を根柢から変えていき、ヒトは自然そのものからますます離陸していっているんじゃないかと感じるからである。たぶん末弟のいた10年前のITがつくりなしていた時代層ともちょっと次元が変わっていると思う。
 善し悪しは別としていうと、人の感性も観念も、もうかつての大自然に私たちが感じていたような恐怖と畏敬のアンビバレンツな思いを抱いていないのではないか。まさしくAI:artificial intelligence:人工知能が、リアルもヴァーチャルもいずれも人の心に境目なく棲み着き、そこに於ける実在感を堪能する人生。
 対するに大自然は、あたかもnatureの全力を挙げてartificial (人工化)に抗するかのように、暴れまくる。ウイルスもそう、集中豪雨もそう、大地震もそう。地動説の終焉を告げるようなヒトの横暴な振る舞いは人動説の時代に入ったと思わせるが、その両「説」の拮抗対峙が時代の様相を画するようになった。今の人は、用いることのできる自然はすっかり手懐けて、心地よい暮らしを堪能する。そういう時代になりましたよと、市場社会のコマーシャルは伝えてくる。
 果たして若い世代がそれをどう受け止めているかは、一様どころか極端に分かれているかに聞こえる。日本人の30%が預貯金ゼロという話(安宅和人)を聞くと、まるで日本が最貧国になってきたようにさえ思う。
 これが僅か十年の時代の落差なのか、たまたま私などの高齢者がそうしたことに気づかないで、ノー天気に暮らしてきたせいなのか、わからない。末弟が享年65歳で逝かないで生誕74歳を迎えていたら、この時代のリアル・アウトドアをどう語り出すか、聞いてみたい気持ちがしている。

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