mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

テーマは「逸脱」

2024-07-13 06:53:12 | 日記
 呉勝浩『Q』(小学館、2023年)を読んだ。なぜこの本を図書館に予約したのか、わからない。何かに書評があったからか、それとも誰かの座談でこの本のことが話題に上っていたからなのか。660ページを超える大部冊。400字詰め原稿用紙にすると1400枚はあろうか。「書き下ろし」とある。
 読み始めて、う~ん、やめようかなと何度か思った。大藪春彦風の暴力、犯罪、壊れた日常を背負って呻吟する姿が、描かれる。でもそういう旋律は、場の特性をとらえているに過ぎないと言えるから、我慢して読み進める。
 なぜ我慢するの?
 その旋律を運ぶリズムのような、底を流れる響きが、何かを伝えてきている。
 あまりの大きな本を抱えて読んでいるから、カミサンが「何、それ」と訊く。
「う~ん、大藪春彦みたいな・・・」と、言い淀む。
「ストーリーを読んでるの? 表現を味わってるの?」と訊かれる。
 そうだね、読み進めるのは表現を楽しんでいるのかもしれない。リズムをことさら受け止めるようになる。
 人の身の内側に潜む、当人にもとらえようがなく、押さえようがない振る舞いの大元、「衝動」。イイとかワルイとか腑分けせずに眺めてみると、百八の煩悩じゃないが、生きている人の動態的関係に噴出して、そこに身を置く人たちを振り回している。
 それを、犯罪とか暴力とか名付けて(日常から)斥けようとするのは、社会的システムのもたらす統治的枠ぐみの、文言化された、法とか規範だけではない。人の日々繰り返す営みの、何千年、何万年の堆積がある。でも(現代では)それは人の身の無意識に沈潜している。一つひとつ意識してつまみ出さなければ、なにがワタシの日常を支えているのかわからなくなる。ことに現代という資本家社会は、まさしく米大統領候補トランプのように、いつも騒がしく声をたて、オレをみろよと叫んでいなければ落ち着かない。その姿こそが、ふつうに成功者であるとみせる。
 「Q」は、それを浮き彫りにする根源。根源というのは、カントの謂う定言命法に見合うこと。《汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として打倒しているように行為せよ》という「定言命法」は、出来上がった社会の側から(統治的に)みている表現。そうではなく、その衝動の裡側、つまり人の裡側からこれを定義するようにする。
「Q」に触れているだけで、人は身の裡から何物にも代えがたい何かを手に入れることができるように感じる。すべてを「Q」に投じ、そこに身を置くことが生きていること。かかわる人たちが皆、そう感じる世界を現代社会に於いて取り出し、描いてみせる。
 そう思って読むと、底流するリズムが日常へ響いてくる。そうして、八十爺のワタシは、間違いなく日常に身を置いて、さしたる内発的な衝動を感じることもなく、文字通り平々凡々と時を過ごしているとおもう。いまとなっては、これがありがたい。でも現代社会を、まさしく現役で生きている中壮年層の人たち、あるいはこれから生きていく若青年層の人たちは、わが身の裡の「Q」をどう扱っていくのだろうか。
 そうおもったとき、現代の社会が指し示している「成功」はことごとく「仮言命法」でしかないとおもえる。もしカントの定言命法のように生きようとするならば、現代社会の「成功」をことごとく注ぎ込んで「Q」へ突き進むしかない。基本は「逸脱」。
 でも、何からの逸脱?
 まず、現代社会のお祭り的かつ統治的成功枠組みからの逸脱。つまりトランプたちが2020年1月に超えようとした、自分の拠って立つ足場をも壊してしまう振る舞いに及ぶことか。
 でもそのとき私たちは、日常からの逸脱もしてしまうかもしれないという、危うい場面に立たされる。それは、でも、やってみなければわからない。
 そうおもっていたら、この先四年間のアメリカは、ひょっとすると認知症の大統領に運行を任せるようになるかもしれないという。果たしてその八十爺の呼び込む「混沌」か、トランプの「混沌」か。どちらも正気の沙汰とは思えないが、日本の政権の次がどうなるかよりは、はるかに私たちの関心を引いている。この「日常」。
 人は心裡深く抱える「Q」を押さえて、人として社会を営んでいるのかもしれない。現代の私たちは「逸脱」しないではいられない。でもそうすると、社会を壊してしまう。
 ここ二万年の人の暮らしを支えていた「平凡な日常的営み」を、現代社会がいかほどに逸脱しているか。そう自問せよと、この小説は問いかけているのかもしれない。

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