mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

当事者性を手放さない「しこう」

2024-05-04 09:05:02 | 日記
 昨日の「何処へ向かっているのか、ニホン丸」は、途中で書き記している航路を変えてしまった。途中で気づいたが、余りに大きなモンダイに取りかかったものだから、走りはじめてすぐに航路変更ができなかった。いいや、このまま行ってしまえと(つづく)としておいたが、出航のときに目ざした進路は、やはり捨て置けないので、昨日の論題を「まとめておいて」、初心へ戻ろう。
 出航したときに目ざした進路は、「抽象と具体」というモンダイであった。入口は二人の哲学者、盛岡正博と小松原織香の対談「”血塗られた”場所からの言葉と思考」にあった「加害と被害と加害者性」ということばを、ワタシがどう受け止めるかを考えてみようとしたこと。抽象化していくときに、ワタシという「当事者性」をどう保ちつづけるかを考えてみようとした。
 ところが「加害と被害と加害者性」のところで、小松原織香が「他国に対する戦争責任を問う」話をもち出したものだから、ついついそちらに引きずられてしまった。いや、引きずられて道に迷ったわけではない。「加害―被害/加害者性」に「当事者」という一項目を挟むことで、具体性を手放さないで、ワタシを保ってきたと、つい、思いついたことへ舵を切ってしまったのであった。その途中で、「そうか今日は憲法記念日。それも喜寿だ」と気づいたものだから、ついついそちらの方へ思いが曳きずられ、大きくそちらの方へ逸れてしまった。ま、どうしてもこの問題を避けては通れない世代的な宿痾なのかも知れません。
 さて、本題に戻りましょう。
 加害ー被害のモンダイを哲学的に考えて行こうとするとき、自分が被害の当事者であったことが、どこかで揮発してしまうことに気づき、それを手放したくないと感じている小松原織香に対して、森岡正博はこう言う。

《赦しをいわば"文学的"な次元が開かれる場として捉え、そこにそのつど生起するもののかけがえのなさに注目していくというのはたしかに一つの可能性だと思います。ただしそうした捉え方は倫理学の問題、つまり正しさや善悪について考える場面においては意味を持たないかも知れない。そこをどうすればいいのかという問題が残る。》

 これは、個別の問題をそれとして考えることは、普遍的な「倫理学の問題、つまり正しさや善悪について考える場面」には意味を持たないと言っています。だとしたら、「倫理学の問題」なんかくそ食らえだって、ワタシはすぐ思ってしまいます。個別性を一般性において考え、普遍性において説き明かすと「倫理学の問題、つまり正しさや善悪について考える場面」の学者は考えるようです。
    ではそのとき、そのデキゴトにおける当事者の「正しさや善悪」は、どうなるのか。正しさや善悪は一つではないといえばいいではないか。どうして真理は一つって決めつけるのか。一つのデキゴトの当事者は、何処に身を置いて誰にどう起こったことをモンダイにしているのかによって、違ってくる。としたら、絶対的な正しさや善悪は、神の目にしか存在しないと言っていいのではないか。
 倫理が、あるいは道徳が人の世の価値観を表すものだと考えれば、神の目は(現実態としては)あり得ない。ただ人の世にとって大切な「正しさや善悪」は、人の世が何を大切かと考えているかによって、決まってくる。その人の世が移ろうとなれば、その時代の振れ幅と奥行きと関わり合いによって生じる数多の関係に応じて「正しさと善悪」は、振れ幅や深浅、濃淡をもって表れる。もしそれを人が判定するとすると、つねに普遍的な(神の目でみるような)「正しさと善悪」を求めながら、イマ、ココに於けるとりあえずの正しさと善悪を見つけ続ける。それが人の世の精一杯の正義と善悪だというのでは、不十分なのだろうか。そうワタシは、感じている。
 対談相手の哲学者・小松原織香は、森岡の発言を受けて、こう返す。長いが、ワタシの身の裡と響き合うものを感じているので、引用する。

《本来的には倫理というのは人が「どう生きるのか」ということであって、そこに正しさや善悪という言葉は含まれていないと私は捉えています。……相対化の話をしたいわけではなく……人生でどうしようもない出来事が起きたときに、私が自己の倫理を問う際に基準点にしたいのは文学だったということです。……正しさの議論を参照するのではなく、フィクションを通して作品内の他者の倫理的選択をつぶさに捉え、それと自分の人生を照らし合わせながら、アナロジカルに「私はどう生きるか」を考えてきたのだろうと、自分を振り返って思います。……でも、このような倫理についての思考法が現在のアカデミックな倫理学研究として受け入れられるかというと、難しいでしょうね。》

 文中の「文学」というのは、個別性を個別性のままに投げ出して、その場面における人の生き方(倫理)を描いています。もちろん作者は倫理を描こうなどと考えていない、ただ、それがおもしろいとか、そのデキゴトのその展開が胸に突き刺さるといったことが物語られているのでしょう。だが、読み取る側はそれを「倫理の問題」として読み取ることはできるわけです。特異なケースを描いた一篇の小説も、文字として世に送り出されたときから、共有される体験になります。どんなにベストセラーになっても、そこに描かれたデキゴトは個別性を失いませんが、読み取られたときに、その作品と読者の間に起こっている共鳴・共振・響き合う波長は、反発を含めて、共有体験なのです。一篇の小説という羽ばたきが共有体験として風となり、いつしか世の中を吹き抜ける竜巻になるかも知れないと、気象学者の問題提起の韻を踏んで、アナロジカルに考えています。
 小松原の当事者性を手放さない「しこう(嗜好・思考・志向)」が好ましい。このワタシの感触は、私の自己承認なんですね。
 森岡は、さらにそれを受けて、

《それは大事な点ですね。とくに西洋近代の倫理学は人間が普遍的にどう行為すべきかを論じてきたわけですが、私が個人としてこだわっているのはむしろ血塗られた次元で生きているこの個別的な「私」が自分の一度かぎりの人生をどうしていくかということで、そこがもっとも大事なんです》

 と彼女の気分に同調しています。「血塗られた次元」が、「殺人」と呼ぶと少し陰惨さがかき消され、「犯罪」というと、もっと抽象化されたようにおもってしまう。それは、たぶん、それが法的言語に変換されて、私たちの生活言語から離陸してしまっているからのように感じます。私たちは生活言語の場に生きている。「事件は現場で起こっている」という何かのドラマで有名な台詞は、生きている場を離れて法的に処理するような「関係」を拒む言葉なのだと思いました。
 小松原織香は、石原吉郎にも言及して、「加害-被害」の入れ籠状になった我が身のデキゴトを、加害者性を手放さずに(加害者から脱落して)被害を見つめる視線に触れて、こう締めくくっています。

《そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる》

 う~ん。この言葉の響きがワタシの胸中に伝わり、そこで取り出された「死の単独性」という言葉の振動が、しばらく鳴り止みませんでしたね。

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