mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

お喋りのクライアント

2024-07-06 06:50:44 | 日記
 先月のささらほうさら月例会については、2024-06-15「ささらほうさらの知らない世界」に記した。「二月の午後」という谷川俊太郎の詩《風は冷たいが穏やかな陽射しの/二月の午後/人に告げたいことが/なくなっているのに気づく》を入口に「わたしも伝えることがないんですよ」と苦笑いしながらはじまったサトルさんのレポート。古稀を過ぎ、八十路爺を3人も抱える老人会だから、話すことさえなくなっていても不思議ではない。
 何しろ半世紀以上のつき合い。もうだまって座ってお茶を飲んでいるだけで、気配が溶け合い、今月もここまでやってくることができましたねと言祝ぐ心持ちになる。レポートの担当者がいるのも、そうでもしないと集まる機縁が生まれないからとでもいおうか、会場まで足を運ぶ動機もなくなってしまう。そんな感触があるから、一応担当者を決めているってことか。
 森川すいめい『感じるオープンダイアローグ』(講談社現代新書、2021年)を読んだとき、あっ、ささらほうさらの会がやっていることは、これじゃないか。そう思った。
 森川すいめいは51歳の精神科医、鍼灸師。私たちの子ども世代の方。
「感じるオープンダイアローグ」って何?
 フィンランドのケプロダス病院が開発した精神医療。オープンというのは、《クライアントである本人やご家族などの関係者に対して開かれている》医療だと森川は言葉にする。日本で1年、フィンランドで2年の「国際トレーニング」を経て資格を取得したトレーナー2名のうちの一人だそうだ。これまでの精神医療に疑問を感じていたところ、そういう新しい試みがあると知って手ほどきを受けてきた。でもそれを、精神医療の方法とか技法と受けとるよりも、その手法を採ることによって変わってくるクライアントや家族、関係者、なによりも医師である自分自身が変わってきたことを「感じ」てきた。本書は、その報告である。
 医療に於いてクライアントというとすぐ「患者」を思い浮かべる。だが、企業などでは「取引相手」、関係はフラットである。外来語をカタカナで使うのには、それなりのワケがある。言葉には「関係」が塗り込められているのだ。
「患者」というと「治療者」と対語になって権威主義的な力関係が言葉自体に刷り込まれている。この精神科医・森川すいめいが「クライアント」とカタカナ語尾を用いるのは、「人と人が向き合う」という意味合いを保とうとしているから。本文を読むと、そう氷解してくる。
 クライアントと呼ぶのさえ適切ではないと、私はおもう。医療におけるクライアント(患者)と治療者(医師)という「かんけい」ではなく、人と人が向き合って、ヒトの社会がもつ自然治癒力が、「やまい」を癒やしているって感触の方が、的を射ている。つまり、関係的な治癒力を引き出そうとしていると言い換えた方がいいとおもった。
 俚諺に「犯罪は警察がつくる、病気は医者がつくる」という。人を何某かの「治療を要する病の持主」と既定して世間標準へ引き戻すのが、医療。「病気の治療」ということにはそういう従来の既定観念が張り付いている。じゃあ、医者にかからなければ病気にならないのか。その通りだ。
 では人はなぜ病院へ行くのか。「病気」となると非常事態。ひとつは、わが身が日常から離脱する事情が社会化される。つまり、オープンになる。日常から離脱することが公に認知されるというのが、現代社会の「病気」である。病院というのは、それを認知する権威だ。
 人が「病気」になることを内発的に求めるもうひとつの理由がある。
「やまい」と名付けることには、何某かの「因子」がある。そう考えるのが、近代科学のロゴスである。世俗的に言い換えると、その因子が作用してその人の「ふつう」を壊しているとみる。むろん外科的な傷も、その結果生じる不都合も、外からやってきた災厄。あるいは身体の内的な因子(例えば遺伝子とか長い間の生活習慣がもたらした異変)によって生じた内科的な「やまい」も、謂わば生き物としての致し方ない宿痾として受け止められる。治癒とはその因子の除去。
 庶民の心中を推し量ると、当人の(選び取った)責任ではないというところがポイントかな。病名を得ると一寸ホッとする。
 ところが精神医療は、そう簡単に「因子」を特定できない。社会関係がもたらすストレスや仕事の緊張などがもたらす負荷に起因することもある。かつてはそれが生理的な因子によると考え、起因する脳内(前頭葉)の異変を除去すればいいとしてロボトミーのような「精神の殺人」さえも公然と行われていた。だがヒトが社会の変容に伴って変わるという「関係的考察」が行われるようになって、はたして「病気」なのか、「ふつう」と異なる「特殊/個別性」なのか一概に言えなくなってきた。社会が多様性を持つようになったことも影響していたろう。その「特殊」をここでは「やまい」と名付けている。
 その「やまい」の(「普通」と異なる)既定観念自体を相対化して向き合おうとするのが「オープンダイアローグ」である。それに参加する医師(あるいは補助的に加わるアシスタント医療者)自身が、揺さぶられ、変わってきたことが、証左だとさえ言える。
 これは、病/治療という関係平面を、どちらが、だれが、なにが「やまい」か、何が因子かわからなくする作用をもたらす。それは「特殊の社会化」である。
 精神科医のクライアントは、人と人との関係とか社会的窮屈さとかシステムのもたらす厄介など、コトの因子がどこにあるかもワカラナイことに振り回されている。ヒトの身の習いが醸し出す「かんけい」によって然るべくそうなっているって考えるしかない。そう考えるのが妥当である。「病気」じゃない「やまい」なのだ。
 となると、市井の庶民が互いに個別にもっている「難題」を共有して、なんでこんなことで苦しんでるんだろうねと、オープンに話し合うことが、すなわち精神医療になる。外科的に明らかな不都合を「治す」というとき、「直す」とすると、世間のスタンダードに合わせるように施療が進む。だが今、世間そのものが明らかに異常なことを、喧伝し賞賛し称揚している日常世界。そうおもうと、「直す」のがいいかどうかさえも疑問になる。「普通に暮らしが送れるようにする」という意味合いに換算し直しても、「ふつう」って何だと、ためらいなく疑問を思い浮かべる。
 そう思うのは、ワタシが年寄りだから。ささらほうさらの老人たちは、森川すいめいとは別の道を辿って「オープンダイアローグ」にいま、辿り着いている。お喋りのクライアントだね。

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