mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

天売島への旅(補)奇遇というか不思議な偶然

2024-07-05 08:13:34 | 日記
 道北・天売島への旅から帰ってくると、大封筒の封書が来ていた。送り主は私の半世紀の友人。アーティスト。知り合った頃は「平面絵画」を描いていたが、そのうち大きな立体物をつくるようになり、私は「造形家」と呼ぶとおもっていた。ジオラマを製作したり、NHKの番組でタイル遊びを指導したりもした。21世紀も少し経ってから、人形の塑像をつくるようになり、それを「アニマの森」と称して、何十体かを仕上げるごとに「展覧会」を催した。
 何年前だったろうか、まだ新型コロナウイルスのことなど知らなかった頃、川口で開かれた「アニマの森」の「最後の展覧会」にお誘いを受け、遊びに行った。そのとき、百体を超えるこのアニマたちをどうしようかと彼は思案していた。私は、そうだよね、ものをつくるのはいいが、それを維持管理するのは大変だし、もしそれが遺品として残されたら、後始末をする人は大変だなあと、笑って話しを聴いていた。
 封筒を開けてみると《山本信作品図録「アニマの森」》というタイトルの写真集。80ページにもなる、ずしりと重みを感じさせるA4版。撮影は清水エリ。写真家であろう。アニマの群れる全体像、クローズアップした表情、世の儚さを見通しているような視線、どこをみているのか、ふと観ている私が観られているように感じさせる切り取り方など、なかなか味わいのある「アニマ」を掬い取っている。「展覧会」では、背の高さに近い塑像の、どこをどう見て取るかは観るものに委ねられる。この写真家は、そういう「カメラの主体性」を存分に発揮して切り取り、この塑像と塑像群をもうひと味加えたアートに仕上げている。
 ま、ここまでは、よくある話しといえなくもない。ところがこの「図録」を企画・構成し発行した主体を観たとき、《写真文化首都「写真の町」》という修飾語に、あっ、と思った。観たことがある。北海道東川町。ふむ、どこかで聞いたぞ、とまず思った。そうして地図を広げ、今度は、あっと声を上げた。地図にキトウシとあるではないか。
 昨日まで私は、キトウシは旭川市と思っていた。そうじゃないんだ。キトウシは「岐登牛山」に由来する東川町の森林公園だった。
 由来が記してある。2022年、東川町せんとぴゅあⅡにて「アニマの森展」を行ったこと、《その後アニマの森作品群(183体)を東川町に寄贈》とあった。いや、良かった、まるで「嫁入り先」が決まったときの、父親の気分だ。
 早速御礼とお祝いの言葉を送った。
        *  *  *
「アニマの森」完成、おめでとうございます。
 いや、なんとも奇遇。というか、不思議な巡り合わせを感じながら、この返信を認めています。
 じつは、23日から26日まで北海道北西部へ出かけておりました。羽幌町から天売島、北は遠別町まで脚を伸ばし、とって返して、朱鞠内湖からキトウシ森林公園を回る探鳥の旅。旭川空港から帰ってきて、あなたから送っていただいた、図録「アニマの森」を受けとりました。
 すっかり疲れて、そうか、写真集にまとめたのかと思っただけで、中を見る気力もないほどの為体でした。今日になってやっと「アニマの森」の顚末を読み、筆を執っています。
 というか、「東川町」と読んで、おやっ? どこかで目にした町だなと思い、地図を見て、キトウシ森林公園って、東川町じゃないかと、驚いています。キトウシが「岐登牛」と当て字をしていることに気をとられ、すっかり旭川市の一角と思い込んでいました。26日には、そのキトウシ森林公園の「展望閣」まで上って鳥見を楽しんできました。
 巻頭の「アニマの森に寄せて」は、素敵な文章です。あなたの人生が浮かび上がります。生きた時代も重なって、「私たちの時代」が切り取られて、特異な80年余を生きてきたのだと感懐を新たにしています。
 あなたと、歩んできた道は違っていますが、わが身の内に堆積する生命体35億年の歩みを、あなたは「潜在意識」と呼び、私は「無意識」と名付け、お孫さんは「爺ちゃんは女好き」と見破って、その不思議に、いま、目を凝らして分け入っている。そういう感触が同じだとおもいます。ユングの精神分析を糸口にして「アニマの森」と名付けていることも、ああ、おなじ感触だとおもいました。
 良かったですね。何年前でしたか、川口で開いた「最後の個展」で「アニマの森」をみたとき、あなたがこれをどう始末しようかとおもっていると嘆じていたのを思い出します。
 そうだ、モノを残すというのは大変なことなんだ。場所をとるし、壊れる。観る人の目も移り変わって、廃れる。とどのつまり、「色即是空 空即是色」。般若心経を思い出したほどです。生きるって何だろうと、つい考えてしまいます。
 「高齢者」の年齢になったとき、65歳のころから、ブログを開設して、ひぐらしパソコンに向かって心に思い浮かぶよしなしごとを書きつけてきました。それがいつしか、わが身の裡に吹きだまる生命体史、人類史のあれやこれやが、まことに不思議におもえてきて、そういえばワタシは一つの生命体史であり人類史であると感じるようになりました。
 マクロの自然、大宇宙への関心とミクロのわが身の裡への視線とが、いずれも不思議への誘いにおもえています。それらの本を読んだり、日々出喰わすモノゴトに感じる違和感とわが身の裡の感性や感覚、ものを思うこと、どこへ行きたがっているかという志向もふくめて、わが身がいつしか堆積してきたコトゴト。それらを、「しこう(嗜好・思考・志向)」と名付け、それへの探索をすることが、ワタシの尽きせぬ道筋におもえています。
 それとあなたの「アニマの森」への尽きない「しこう(嗜好・思考・志向)」が、同じような響きをもっていることに、うれしくなっているのです。その「始末」がものの見事に有終の美を飾りましたよね。東川町の個展と「町の文化的財産として保存・展示してくださる」という顚末と、それを見事な図録にまとめている「写真文化首都」の心意気がもたらしたことに出逢えたこと。
 ほんとうによかった、我がことのように悦びを覚えています。おめでとうございます。
 良かったですね。あなたが元気でいることも、知ってうれしくおもいます。
 お身体に気をつけてお過ごし下さい。
    *  *  *
 何とも奇遇。不思議な偶然である。逆に言うと、こういう奇遇、偶然の不思議に、なにがしかの因縁を感じるワタシになっている。これも、面白い。