mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

言葉を交わす次元が拓く新しい世界

2024-07-29 09:06:58 | 日記
 面白い本を読んでいる。池谷祐二『夢を叶えるために脳はある――「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社、2024年)。脳科学者の池谷祐二が十人の高校生に脳科学の研究状況を説明した三日間の講義と取り交わしたやりとりをベースにして、再構成した本。なにしろおおよそ700ページにもなる大著です。脳科学に関して、専門家と庶民大衆との橋渡しをする試みと、門前の小僧の私は(まず)おもいました。
 池谷自身もこれに大きな期待を掛けているような面持ちで「はじめに」を記していますが、何を期待しているのかは、明快な言葉になっていません。彼が口にしているのは、次の4点。
(1)講義に参加するからには、世界で一番、最先端の脳研究の知見に触れた高校生になってほしい。
(2)脳の不思議さと脳にまつわる論議の相対性を浮き彫りにする。
(3)人工知能と脳とを比較することで脳を研究することの意味と科学の本質について踏み込む。
(4)脳の挙動の探求を通じて、「私」という存在の真相に迫る。
 (1)は、研究を次世代に繋いで行こうという期待です。(2)~(4)は、脳研究をしている人間の(主体としての)「(尽きせぬ)おもい」です。
 (2)の「不思議」を自明のこととする科学者は、しばしば「相対性」を失念してしまいます。脳に限らず、自身の研究の「領域」が限定されたものであることは、言うまでもない自明のことです。ところが、専門家として世の中のいろんなことに言及するとき、自明であるが故に失念するのです。そう、無意識に限定領域を世界大に広げてしまうってことですね。いや何も専門家ならずとも、私たち市井の庶民は、しょっちゅうそういうことをして、笑い、嗤われています。
 (3)は、脳という領域に似せてデジタル機器のプログラミングから組み立ててきた人工知能が、脳科学を対照化してみせる世界を、脳科学の方からどう受け止めるかというテーマです。これも、他の専門分野というよりも、社会における両者の接点を、どう受け止めたらいいかと考えている姿です。所謂AIを、あたかも人の脳の代替のように受け止めていいのかと、世間ではデジタル時代の人の在り様を話題にしています。それを、脳科学者(池谷)はどう受け止めているのか、高校生との遣り取りで、それを広く市井の庶民と擦り合わせようとしているのでしょうね。
 (4)は、「脳」の研究が進んだ現段階で、脳の反応を可視化することによってどんな夢を見ているかを(外から)知ることができるとか、スマホの磁気機能をもったチップを脳に埋め込むことで磁気を探知して迷路を探ることができるマウスの研究とか、目に見えない紫外線をチップを埋め込んで視覚化できることを、どう位置づけるか。逆にそれは、いま私が感じているワタシ、つまり池谷のいう「私」の、オリジナリティ=内発性って何だという問いを、避けないで正面から受け止めようとする脳科学者の姿を指しています。もちろんここで、私のワタシと池谷の自問自答が重なるというわけです。
 まだ4分の1ほどを読み進めているに過ぎないので、本書についてあれこれ評価しているわけではありません。だが、ここまでで私は、この著者をすっかり信用しています。これは大事なことです。この信用があったればこそ、私はこの本を読み進める心持ちを保つことができますし、ここでの遣り取りを咀嚼してわが身の裡に取り込むことにも躊躇いをもたないのです。
 そうそう、これも高校生との遣り取りで話題に上がっていました。科学も(他の何か専門的な領域の仕事も)、とどのつまり、市井の庶民からすると「信じるか/信じないか」に尽きる。地動説も、相対性原理も、量子力学も、ふむふむ何か難しいことを研究して、何だ、そこまでわかっているのか。そりゃあ、すごい、と。信じていればこそ、すごいと感嘆することもできるのです。
 不思議というのは、知らない世界が向こうに広がっていると感知することだけれど、自分は知らないが(誰か専門家がその領域を摑んでいる)ということを感じただけで、さらにその向こうに不可知の世界がある感触をもつことができます。人の褌で相撲を取っているに過ぎないのですが、それを他人事と思えないのですね。これも「信じる」という心的作用なのかもしれません。知っている世界の限界があると感知することを不思議と呼ぶのだと、あらためておもいます。と同時に、そうだ、こんな話が交わされていました。
 池谷のことを知っている警備員が、にこやかに挨拶しながら、でもIDカードの提示を求めたことを話して、これって、人の認証にとって何だろうと語り合っていました。顔認証を警備員が認知しているのに、IDカードの提示をさらに求めるのは、何かヘンだというわけです。
 でも市井の八十爺は、すぐに、ああ、それって公的権威の保障だよと胸中で応答していました。警備に必要な「顔認証」を警備員が行うのでは、まだ公的に欠けるものがある。それに「権威付け」するのがIDカード。警備員という人が信用されていないってことですね。人っていい加減だから、と私は昔日のいい加減な時代を懐かしみながら、思い出しています。
 ところがこの「公的権威」をしばしば私たちは、無意識に追いやって暮らしています。これを、何かヘンだというのは、無意識世界に踏みとどまっているから。社会的な関係において、しばしばこうした「公的権威」が仲立ちして、関係の慥かさを「保障」しているのです。そう、この高校生講義に投げかけてやりたいとおもいましたね。
 まったく私たち人間は、人と人とのかかわりの不確かさをいくぶんかでも確かなものにするために、いろいろな手順と手続きとさまざまな言葉を創り出してきました。そもそも挨拶というのが、それです。IDカードとか、パスポートとか、住民票とか固定電話の番号までも、時と場合によって「保障」になっています。人の世界がメンドクサイのは、顔見知りの間柄だけで過ごすことができなくなっているからですね。その最大の保障システムが資本家社会的市場システムです。もちろん、それから外れる遣り取りもずいぶんたくさんありますから、資本主義的統計だけで世の中のすべてをみてとったと思うのは、間違いなのですが、ふだんTVなどで見受けるのは、そういう言説ばかりですね。
 この人間の創り出したメンドクサイものがすっかり私たちの無意識に定着しています。意識的に世界を語るときは、さらにいっそう、メンドクサイ考察を、まるで厚い表皮を剥ぐように一枚一枚剥がしていかなくてはならないのですね。
 ま、そうしたことを厭わず、高校生との遣り取りを通して、自身の脳科学の領野をさらに広げ、深めていこうとする池谷祐二の逞しさに惚れ惚れしていることろです。

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