mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

異常気性と骨休め

2024-07-27 08:47:09 | 日記
 先週の「お試し山行・黒部五郎岳」5日間の骨休めで、奥日光へ行ってきた。この猛暑、「関東地方の天気は荒れる」と予報は囂しい。カミサンは、やはり私と同じ時期の「宮古島4日間・探鳥の旅」の骨休め。とはいえ、貧乏性の育ちもあって、どこかへいくとなると目一杯歩こうとなる。
 1日目は戦場ヶ原から小田代ヶ原を経巡って、約12kmを歩く。小学生の修学旅行と重なって、団体さんが群れて歩いてくる。
 2日目は、金精トンネルを抜けて群馬県に入り、丸沼高原のロープウェイで上がり、白根山への登山口から標高2000mを超える中腹の散策路を歩く。ここの座禅山は3年前、2021年7月に私のリハビリチェックのためにやってきて、4時間ほどの四苦八苦を愉しんだ。付き添ってくれたカミサンは、そのとき思わぬいろんな鳥の出現に悦んで、ここを探鳥地の一つに加えた。その後も折を見て、ここへ脚を運んでいる。
 3日目は、いろは坂を降り、日光植物園を見て回る。
 鳥と植物に目を配らないでは居られないカミサンに比して私は、何もかもぼんやりと向き合う門前の小僧。ただ歩くことだけが取り柄と心得て、それもぶらぶらと歩くでさえなく、ぶらつく。まさしく骨休め。
 この奥日光にいる間に、埼玉県はTVで大騒ぎをしていた。雷と竜巻と大雨に襲われ、屋根が飛ばされたりして、ニュースでは埼玉のそちこちの地名が飛び交っていた。普段は災害のない埼玉といわれ、人柄ものんびりボーッとしていると自嘲している風情だったのに、どうしたことだと、露天風呂上がりのビールを片手に私はニュースをたのしんでいる。
 えっ? これも骨休めなの?
 異常気象というより、これはワタシの異常気性ですね。いくらか時流に乗って八十余年、非日常を待ちわび、日常を軽んじてしまう気性が育って、いまやそれをヘンともおもわない。見回してみれば、周りは皆、異常気性ばかりが目につく。
 緑に身を浸し、野鳥や山野草に親しむという骨休めも、そうした異常気性の贖罪のような気分なのかもしれません。
 こうしていて、ふと思う。
 アメリカの元大統領トランプなどは、こうした「贖罪」をいつどのようにしているのだろう。自分のついた嘘八百の禊ぎは、いつどのようにして洗い清めているんだろうか。共和党のトランプ岩盤派の人の中には、トランプを「現代の予言者」として崇めている人もいると聞く。彼のふしだらも、悪罵を尽くして誹る言葉も、傍若無人な振る舞いも、ヒトとしての原初的な在り様を包み隠さずさらけ出して、苦難に苦しむ人びとの救済をしていると、理屈があるらしい。へえ、どんな理路があるのだろうか。
 鰯の頭も信心からっていうが、その人の胸中に結ぶイメージがその人の思う理にかなっていさえすれば、いいのか。なるほど、「理」とか「理路」そのものも、自家薬籠中のもの、外からの権威的保障はなに一つ必要ないのかもしれない。
 そういえば、いや、なんでもあれほどにはワタシはひどくない。日本から見ているせいか、トランプはヒトの反面教師である。ヒトが人としてどれほどに変貌を遂げてきたか、人類史的な文化規範の積み重ねをしてきたかを如実に教えてくれているようだ。その限界を示唆しているのかもしれない。
 ヒトの歩みも、円環を描いて、一巡りしてきたようだ。
「襤褸は着てても心は錦」なんて、どこのバカがほざいているのか。襤褸を着てるヤツはクズ、キンキラキンに着飾っていてこそ、錦に輝く。それを裸だというヤツは嘘つきのフェイク野郎だってね。
 そうだね、ギリシャのソフィストのイメージって、そういう口舌の悪さもあり、#me-firstでもあり、うん、今のトランプのイメージにそっくりだ。そこから2500年経って、ソクラテスやプラトンの着せてきたヒトの装いが剥ぎ取られ、ふたたびソフィストの桜花爛漫の時代がやってきたってことか。
 そういえば、ギリシャは都市戦争が絶えなかった。ウクライナもガザも、つまりプーチンもネタニエフも、状況的面子は揃っている。しばらくはこの混沌・戦乱の時代が続いて、そのうち新しいソクラテスが登場してくるだろうか。それとも、その軸の時代の同時代人であった釈迦やゾロアスターのような人物が、いまや新しいグローバル時代の背景をひっさげて立ち現れ、混迷の人類に新しい生き方の指針を、提示して見せてくれるだろうか。
 ははは、もうアナログじゃないぜ。デジタル時代の情報ツーカー時代。文字にするよりも、言葉で解いてお喋りしている。
 いや、ソクラテスは、説かなかった。問うていた。そうだ、問うことが「指針」だ。説くには、教説が必要だ。「指針」というのを、ついつい広大な「教説」と考えてしまうのは、人類史の学校体系的な専門権威に馴染みすぎた悪いクセだ。「教説」を説こうとすると、その始祖がついつい何もかも知り尽くした「絶対的権威」にならなければならない。ヒトはそれにすがり、始祖は「権威」になる。専門家と門前の小僧の群れ。
 デジタル時代はそういう時代ではない。誰もが短い言説を掲げ、あちらこちらから、ああでもないこうでもないと所見が殺到し、そのもみくちゃの中から、とりあえずベターとおもわれる道を選んで、そこへ踏み込んで見る。それで巧くいかなかったら、そのどこが、どうモンダイだったかをよくよく吟味して、修正を施してゆく。そこが、第一期軸の時代を言われるソクラテス時代との違いだ。
 試行錯誤なんだよ、ヒトの道は。だが同時に、ついついそれを忘れて、なにかこう、ガンとした鉄棒のような筋金入りの「指針」を求めてしまう。それがふらつくと、すぐに、それを提起したヒトのお粗末さの所為にして、人を代えようとする。それが門前の小僧と専門家に満ちあふれた時代の、社会的所作。だがそこには、主体であるワタシは登場していない。主体ならば、そのふらつきもまた、ワタシである。とりあえず選んだベターな「指針」も、その吟味も修正もまた、ワタシのなす業である。
 そうか、試行錯誤という方法的提起が「指針」には必要なんだね。それには、「教説ではなく、「問いかけ」が一番効果があるってことか。
 ふむ。ワタシの自問自答も、自問の方に重きをおくことが求められているってこと。答えなんかどうだっていいとはいわないまでも、それは歩きながら吟味するしかないってこと。そうおもえば、気も軽くなる。そうそう、そうやって骨休めになったってことですね。

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