mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ネットが壊れる

2024-07-10 08:26:32 | 日記
 日曜日からBSTVが映らない。受信できませんという表示が、どのチャンネルにも表示されている。もっぱら録画を観ているカミサンが、たぶん録画したはずのものが録れていないので、おや、どうして? と気づいた。
 我が団地は集中アンテナ。J-COMが無料で間に入って、希望者に有料のネットサービスを提供している。我が家はwifiなどのサービスを受けているから、カスタマーセンターへ電話をした。「土日祝日はつながりません。平日の9時以~18時にお電話ください」とアナウンスがあって、手が出せない。月曜日は朝から赤城へ行ったから、帰ってきてから電話をした。
 カスタマーセンターでは、「他のオタクからの同種の訴えはない」という。さらに、電話はつながっているか、wifiは通じるかと聞く。それはモンダイないと応じる。
「ひょっとすると、TV機器の接続部分か何かの故障かもしれない。明日伺います。TV機器を診させてください」と丁寧な応対。我が家だけなのか。そういえば、このTVも、もう十年を超えるか。ぼちぼち故障してもおかしくない。
 そして、その「明日」の昨日、ゴミ出しをしたカミサンが、階段入口の掲示板に「お知らせ」があるという。BSの映らないのは我が家だけではないのだ。
 理事長名で出された「BSの故障について」では、故障の発生は土曜日の17時。原因が判明したのは日曜日の19時。団地建物の屋上に設置されているアンテナのコンバータが壊れている。土曜日の雷による落雷のためではないかと推測されるが、わからない。とりあえず、修理見積もりを出した。修復には2~3週間かかる見込みと、アンテナの図をつけてコンバータってコレよと示し、要領よく記載されている。かつて一緒に団地の役員をしたことのある今年の理事長の、理系的な几帳面さをもった顔が目に浮かぶような文面であった。
 そうか、そうだったのか。そういえば、土曜日の夕方には激しい雨と雷が鳴っていたなあ。でも、この団地に落ちたとは思いもしなかったねと、笑う。TV機器の故障でなかった。ははは、また買い換えに失敗したねと、TV好きのカミサンに同情する。
 考えてみれば、J-COMのカスタマーセンターに電話するよりも、理事会役員とか上階のどなたかに電話をして聞けばわかることでもあった。でもそうするよりもまずカスタマーセンターという私の振る舞いは、ご近所付き合いよりも市場サービスの方が身近になっているということだ。
 どうしてこうなのか。
 私の暮らしがご近所よりも市場ネットワークに溶け込んでいるってことか。コミュニティの喪失とか崩壊というのを取り上げるとき、私は「かんけい」のつながりが「機能性」に傾いて、そのつながりに含まれる「実存の相互承認性」を等閑視しているとみていた。
 家族とか親しい間柄というのは、互いがそこに在ることが、すなわち大切におもえる。もののやりとりばかりでなく、お喋りも、ただの挨拶さえも、お互いの実存の相互承認を意味する。人と人との関係というのは、基本的には、相互承認の営みである。機能的関係もその営みのひとつの筋道であるが、その相互承認の市場における物質的・技術的な成果だけを取り出して表現したもの。つまり、人の営みの市場的・物質的・技術的要素だけ抽出して示す。実存の相互承認という、心身一如の総合的な遣り取りの骨格の一部ではあるが、血肉を抜き去っているから、とうてい「実存の相互承認」と呼ぶには似つかわしくない。
 だが、「実存の相互承認」を等閑視するも何も、暮らしそのものが市場(の機能的関係)に溶け込み、それを介在させてご近所ともつながりが形づくられるってのが、現代のコミュニティである。資本家社会的市場というのは、まるごと私たちの暮らしを巻き込んで、圧倒的である。
 実存的関係の血肉にあたる、挨拶やお喋りや趣味や余暇や仕事やそれらの積年のつながりというネットワークは、当然、人それぞれ。ご近所とは、付き合っているネットワークにズレがある。普段溶け合っている市場ネットワークの方が、その機能性も作用して、ついそちらへ向かう。それは同時に、社会的なつながりでいうと、システムに依存するようになる。人と人とのつながりという意味での血肉のネットワークからは孤立をすることになる。人の暮らしそのものが「機能性」に満たされ、その機能的作用がもっていた人と人との関わりという「実存の相互承認性」が希薄になり、いずれ、捨象される。
 「実存の相互承認性」というネットが、いまさら壊れるのではない。実存の相互承認という群れて生きているヒトの決定的属性の要が、とっくの昔に、社会システムに於いて廃れてきているのだ。それを意識的につくりだし、自ら乗り出して賄っていかなくては、誰も世話をしてくれない。市場ネットワークはそれを、金銭と引き換えに取り仕切っている。そういう時代になっているのだ。その、すたれてきているコトを、護らなくちゃあと口角泡を飛ばして「家族制度」とか「同姓制度」とか、「日本人の一体性」を護れと檄を飛ばしているのが、所謂保守強硬派の人たちである。
 ではその人たちは市場ネットワークを批判的に見ているかというと、まったくそうではない。保守強硬派の知識人たちは、まさしく自らネットワークを駆使して意識的に「実存の相互承認」の血肉ネットワークを構築する力を持っている。だから彼らは、自らの現実的立場を護ることが、すなわち自分を守ることになる。順接している。だがそのように順接しない市井の民は、そうはいかない。辛うじて今回の私は、団地管理組合理事会というシステムが作動していることによって救われた。そのことを肝に命じておかなくちゃあとおもっている。