mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

交換とはコミュニケーションである

2024-03-13 13:43:37 | 日記
 今日(3-13)の朝日新聞の「柄谷行人回想録」に《〝交換〟こそが「資本論」の中心》という企画記事が掲載されている。それまで生産様式論として論議されていた「資本論」を交換によって(通貨に対する)「物神崇拝」が生まれたことへと話を展開しています。その通りだと私も思いながら、でももう一つ踏み込んで、交換とは「交通」であると(「ドイツイデオロギー」で展開していたマルクスへ戻って)意識し直すことから考えなおしてはどうか。その交換が人と人とのコミュニケーションであったものまで、商品経済の交換に飲み込まれていることが問題なのだと展開するとオモシロイと思っている。今日の記事は「上」であるから、つづく「下」でそういう展開になるのかも知れませんが。
 というのも、明日の「ささらほうさらのかい」でレポートするめに目を通していた地域研究論文にオモシロいものを見つけたからだ。
 伊藤将人《農村社会における移住者と地元住民の関係性の構造と共生への一考察》というタイトル。サブタイトルに《映画『おおかみこどもの雨と雪』を題材に》とあったので手に取った。細田守監督、スタジオ地図制作のアニメ映画。幼い子ども二人を連れて田舎に移住した若い母親を中心に据えて、その地に馴染んで居場所を得ていく物語である。
 伊藤将人は、その物語を手がかりに、地元農民が何にこだわり、移住者がどうすることで地域に馴染んで受け容れられていくかを細かく解析している。移住者を受け容れていく過程に「世話役」と「翻訳者」が必要と見て取るばかりではない。「農村における理性主義に対する経験主義の優位」と、移住者と地元住民の文化の違いにも着目し、その遣り取りの間に「互酬性によるコミュニケーション」が大きな位置を占めていることをとりあげ、(地域共同体の)「信頼性の輪に入れる装置」と記している。
 贈与互酬という交換のかたちが今、都市か農村かを問わず、資本家社会的システムの商品経済にすっかり飲み込まれている。それでも(余った作物をお裾分け/お返しする)互酬制という遣り取りが人びとのコミュニケーションとして力になっていると(細田の理想像でしかないと自称するアニメの展開ではあるが)読み取って、今朝の柄谷行人の指摘をもう一つ肌身に近いところで汲み取っていると感じたのである。
 これは都市の居住者にも当てはまること。つまり都市では店で買い物をするというかたちで手に入れているから、それがコミュニケーションであると実感はしていない。でも、買った物に手を加え調理して味わうとき、それを生産した人、流通させ販売している人とのコミュニケーションをカラダで感じとることができれば、そこでコミュニケーションが成り立つことになる。つまり、交換価値として手に入れた物が使用価値としてもちいられるとき、商品は「品物」の交換というコミュニケーションであるかたちが出現する。これはうまいというのも、これは煮物にすると崩れてしまうという食材も、手を加えていただくときに感じられる。そう感じたとき人と人のコミュニケーションが浮かび上がっている。
 だが貨幣の物神崇拝性が、それを揮発させ、邪魔立てする。ものを必要とする人にとって需要は具体的であるのに対して、販売する側の商品は消費に向けた抽象性を体している。まして需要者から交換に供せられる貨幣は、すっかり抽象的な「富」であって、それを支払う人の労働の対価(であった)という具体性はすっかり揮発している。ここに、農村地域における互酬性と都市部における商品交換の違いが、身体感の違いとして如実に現れる。謂わば文化の違いである。しかもそれは身体感の違いであるがゆえに、言葉にならない「感触」を伴っている。
 品物の互酬性は、文字通り振る舞いのコミュニケーション。使用価値の贈与であり受け取りである。だが街のお店においては買い手は顧客という抽象であり、大家は貨幣という絶対抽象物である。商品の売り手は販売という交換価値の遣り取りを仲介しているにすぎない。この交換における使用価値が交換価値で表現されるという価値形態を「資本論」が軸として提起したことに柄谷は注目したわけだが、その交換が実はコミュニケーションであるかどうかということに、地域と人の関係はかかわるのである。
 農村においても、この商品経済はごく一般化している。つまり都市に限らず人と人とのコミュニケーションそのものが、具体性を欠いて抽象化している。いつぞや取り上げた「保育園落ちた。日本死ね!」という若い母親の憤懣も、それの吐き出し場所がなかったと指摘されていたが、そこまで拾い上げる商品市場があるとは思えない。つまりコミュニケーションにおいて人びとは疎外されたままに置かれている。例えばそういうのを掬い上げるのが宗教組織であったり、民間のNPOだったり、公民館活動であったりするのであろう。だが自らそういうのを組織して活動するというのは、高校や大学の学生時代にそれなりの積み重ねがないとなかなか難しい。日々の位で暮らしで孤立する。仕事をしている間は、どうこう言っても職場がそれなりのコミュニケーションの場をなしてくる。問題は、専業主婦とか、あるいは出産して育児休暇中の母親などは、孤立したまんま日々の暮らしを送ることになってしまう。
 そういうことを、例えば地域自治会で汲み上げているか。ほとんどなされていない。住宅地で自治会が成立しないと言われて久しい。生活実務を整えるのは地域行政の仕事ということになると、せいぜい地域的にはゴミの集荷所とその清掃程度になってしまう。行政側からすると「市報」「議会報」の配布を委ねる地域組織となろうが、はたしてそれで年会費を集めて自治会参加を求めても、そっぽを向かれてしまう。ではお祭りをやろうといっても、高校の学校祭でやる出店程度の賑わいでは、とうてい遊園地で遊ぶのには敵わない。盆踊りも、企画ツアーの旅行の方がはるかに醍醐味がある。
 言葉を交わす場を設けようとしても、趣味嗜好の違いが浮き彫りになって一筋縄ではいかない。カルチャーセンターなどがあるから、そちらへ行くほうがさばさばとしてこだわりもない。自治会の入会率が5割を割る事態も、さもあらんと思う。
 こういう、その地に住む人びとが言葉を交わす「場」をもうけることが、先ず大切になる。それを自律的に運営する「世話役「翻訳者」――「仲介者」も必要だ。いないと活動できない。暮らしの中に互酬性のような関係を創り出すこと。これが、商品経済だけに傾いている日本社会の庶民を掬い上げる地域再生の大切な課題である。