mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

商業主義的「公平・公正」

2024-03-14 09:11:05 | 日記
 今日(2024-03-14)の東洋経済オンラインに《都の学校カウンセラー「250人雇い止め」の衝撃》という記事があった。都立の学校に、掛け持ちで配属されている学校カウンセラー(SC)が1年契約なので、次年度採用の試験を行ったが、来年度の採用試験で現職の250人が「不合格」になった。都教委は「公平・公正を期して、SCの裾野を広げたいと考え、一般からの受験者採用を多くした」という趣旨の説明をしているそうだ。
 SCが「雇い止め」と言っているのに対して都教委は「会計年度採用だから雇い止めではない」と反論しているが、SCがいう「雇い止め」という言い分には、カウンセラーと児童生徒との仕事における関係の継続性が張り付いている。それに対し都教委の言い分は、そうした「継続性」も、SCという仕事の専門性に関する(事業能力の経験的)「蓄積」も、組み込まれていない。
 継続性や蓄積を評価することは度外視されているのかというと、仕組み上、そうではないようだ。勤務校の校長による「業績評価」が四段階でなされ都教委へ報告を上げている。不合格になったある受験生に関する評価を、全項目最高位の「A」にしたと回答している校長もいる。
 では「試験」でそれはどう評価されたのか。そう(取材記者か交渉に赴いたSCが)問うたのに対する都教委の回答が、先述の「公平・公正を期して・・」であった。つまり、先年度(まで)の実績を算入することは不公正であり公平でないと考えているということである。つまり「継続性」や「蓄積」は考慮外だったと述べている。
 記事はそれを証そうと、受験不合格者の経験年数ごとの数を調べている。すると経験年数が多くなるほど不合格者が多くなっている。「一般からの受験者採用を多くした」というのは、「継続性」は無論のこと「蓄積」をも無視することが、「公平・公正」と考えていることを証している。SCの専門性をほぼ考慮していないか、それらは何らかの理知的学習で身につくものであって、現場の経験で蓄積されていくようなものではないと考えていることがわかる。
 実際、記事の後半で受験者の「面接」における遣り取りを紹介しているが、ほぼ受験前に勤務年数の長い人は不合格と決めていた形跡がある。カウンセラーの専門性への敬意も、まったく感じられない。これは、何を意味しているだろうか。
 学校がなぜカウンセラーが必要としているのか。そもそもカウンセラーが児童生徒に何をしているのか。いやもっと根源的に、カウンセラーというのが何をする仕事なのか。昨日つかった言葉をもちいるならば、その「使用価値」を全く見ていない。見ていないから、先年度何をしてきたかという「継続性」も、長年の経験がどう「蓄積」され、カウンセラーの腕をどう磨き上げていくかを、算入することができない。各校校長の「業績評価」は主観的なもので当てにならないと考えているとしたら、それは試験と面接でカクカクシカジカのチェックを組み込んでいると言えば、その妥当性を評価することへと論点は移っていくに違いない。その職への敬意がないから、行政的な「契約」概念だけで処断することを「公平・公正」と、これまた同じく断定しているに過ぎない。記事は、不合格SCの生活をも取り上げて、何年も継続してきたこの人たちの年収減をも問題にしている。
 市井の老爺である私は、ではどういう当事者なのかと、社会を俯瞰してみる。浮かび上がるのは、日本社会の行く末である。果たしてこういう行政のセンスで、人は育つのであろうか。ことにAIが人の動きの主力にのし上がっている社会で、カウンセラーの仕事は、まさしく人にしかできない特異な領野。その専門性を鍛え、育て上げる長期的な戦略をもたないで、商業的な「契約」概念で「公平・公正」を気取られては、人の社会のコミュニケーションも、腐っていくしかない。これでは孫の世代は息苦しかろうと心配である。
 資本家社会的商品交換のセンスに根こそぎ絡め取られているばかりか、それが、僅かに残るヒトの気配さえも排除してしまうかたちを、この東洋経済オンラインの記事は示している。都教委の役人がそうだというだけではない。列島の、あるいは世界のことごとくが基本的に、このかたちになっていることを感じ、何ともやりきれない思いが胸を満たしている。