mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自ずから剥がれる

2024-03-02 09:19:07 | 日記
 昨日風呂から上がって身体を拭いていると、ぱらりと胸に貼ってあった透明シートとその下の3センチ角の絆創膏が剥がれた。ああこれが、退院のとき看護師の言っていた「自然と落ちます」ってやつか。
 きちんと全部剥がし取り、ペースメーカーの植込み具合をみようと鏡の前へ行く。なんとまだ下にガーゼ様のものが貼ってあって、ペースメーカーは見えない。う~ん、こうまでして手術痕にウイルスが侵入しないように気を配ってるんだと、医療に対する敬意を改めて感じた。
 たまたま看護師をやっている知人からメールが来たから、シートの剥がれとその下にガーゼがあったことを返信メールに書き送った。「そのガーゼは、もうとってもいいよ」と再返信が来た。へえ、そうなんだ。でもなあ、折角くっ付いているんだ、態々剥がすことはないやねと思っている私がいた。
 何だ、この私の無意識の反応は。まず、そう思った。
 自然に剥がれるってときの「自然に」って、何だ?
 態々剥がすの「態々」って何だと、自問が浮かんできている。
 入院中、医師は何回も診に来てシートなどを捲って「取り替えましょう」と言いながら、剥がしていた。私が、そうするがままに任せていたのは、医療行為に関してワタシは患者、即ち被行為者だと受動的な立場を辨えていたから。自ら「する」ものではなく、「される」もの。受動的って、そういうことか。
 でもね、ペースメーカー植込み手術の前に、何枚かの「同意書」に署名した。あれは、なんだ。受動的な立場をとることに同意したってことじゃないか。あの「同意書」を書くことによって、その後に行われる医療行為に出来する事象の「半分」に、ワタシも責任を負うってことか。どうして「半分」なのよ。ペースメーカー植込み手術に何の影響を及ぼす力も無いクセに。
 署名した「同意書」は7,8枚綴りのA4版のプリントであった。感染症の危険とか手術中の神経回路やリンパ回路を傷つける懼れとか、いろんなことを書いてあった。医師も義務的にであろうが、ひとつひとつ読み上げるように「確認」して、署名をうながした。つまりワタシは「危険があること」を承知の上で、手術に臨んだ。ということは、手術の「結果」について(医師の)責任を問わないということであったのか。
 法的には「患者の同意」を得たことになろう。だが、実態的に患者は受動的である。されるがままに任せている。手術という行為の運びに「責任」を負う「余地」というか「隙」はない。つまり生活言語的に言うと、素人である患者には医療行為の責任を負うことはできる立場がない。むしろペースメーカーの植込みということに関していえば、全くの素人が「同意書」に署名することによってすべてを医師に預ける、つまり「受動的」立場に身を置く。そうすることによって、手術という非日常的な行為を「「自然(じねん)」として受け容れている、と言える。
 この患者と医療者の間には、「同意書を書いた/得た」というコンプライアンスの形式を整えるだけでは超えることのできない「跳躍」がある。
 ヒトというのは、本能的な反応だけでなく、人為的な規範や道徳、様式や位階序列、規定や仕組み、システムなどを調えることによって、その網の目に乗っかって暮らすようにしてきた。その網の目を張り巡らしてくる中には、いくつもの「能動/受動」もあったろうし、愛憎も入り組んでいるし、遺恨も哀惜も入り交じって紡いできたものが多々あったに違いない。そもそもそれら網の目を創りあげてくるプロセスは人類史的な過去のことであって、今ここに生きているワタシにはその形成過程にかかわる主体的な余地はない。何もかも、いつ知らず受け容れ、その中でしか生きていけない籠の鳥である。その中で「主体」として生きるという想念が誕生した。
 その関係が交錯する過程には、受動的になることによって患者としての主体を起ち上げることを「自然(じねん)」とする屈曲もあったろう。そもそも「主体」を表現するのに「be subject to~」という受動態をとること自体に、その主体成立過程の精妙な不可思議は込められていると感じてはいた。ヒトは単体で生きていく動物ではなく、家族とか、国という大きな人間集団に身を置いて生きながらえてきたことが、象徴的に示されていると思う。こういう「しこう(嗜好・思考・志向)」の屈曲を組み込まない、「感覚・感性→思念・思考→意志・志向」の流れは、どこか信用できないとワタシの「自然(じねん)」は訴えている。
 とすると、そうか、「同意書」を書くことによってペースメーカー植込みという医療過程に全部身を任せる新しい「環境」にワタシは入域したワケか。つまりそれは、ワタシがペースメーカー(という人為の工作物)を「自然(じねん)」として身に備えたってこと。それがワタシの、新しい自然になったってことか。
 オモシロイ。八十路爺になって、こんな新しい自然を体験できるというのは、やはりヒトならではの恩寵である。八百万の神々に、感謝申し上げまする。ははは。