mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

市民社会の「法」の精神の原型

2016-12-24 14:28:52 | 日記

 12/21のこの欄で、《「人間の尊厳」の重み》と題して、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)について記した。後にひとつ書き落としていたことに気づいた。

《第三幕は「判決」。なんとここが二章に分かれ、「有罪」と「無罪」の、二通りの評決が開示される。これもまた、哲学的に読み取れるが、シーラッハは読者が参審員としてどう評決するかに委ねたと思われる。》

 この「判決」、「有罪判決」の方は「撃墜を認める法律は憲法違反」とする最高裁判断という法的根拠を持ち出せば、(日本にいても)法制的には成立する。しかしシーラッハは、その法制的根拠に踏み込み、判決理由に掲げる。イギリスのある事件に関する「判決理由には、素晴らしい文章がのっています。百三十年後のいま、当法廷でもそれを踏襲します」と前置きして、以下のように引用する。

《わたしたちはしばしば基準を設けることを求められるが、わたしたち自身がその基準に達しないものだ。そして規則を作っても、それに満足できないものだ。しかし赦したいという誘惑に駆られてもそう言い渡す権利は一個人にはない。その犯行に同情を覚えたからといって、犯罪の法的定義を変更したり、弱体化したりする権限も一個人にはないのである》

 そのうえで、次のように述べている。

《ルフトハンザ機の乗客の生死はテロリストのみならず、ラース・コッホ被告人の手中にありました。乗客は無防備で、身を守る術はありませんでした。乗客は殺害されました。人間としての尊厳、譲渡不能の権利、人間としての全存在が軽視されたのです。人間はモノではありません。人命は数値化できません。市場原理に準ずるものでもないのです。》

 これを私は、《「人間の尊厳」の重み》と受け止めたのであった。「法の規定」の底面に累々と堆積する「人間の尊厳」を獲得する歩みが感じられ、そういえば日本では、それほどの「重み」を実感する前に、「人間」ははやばやと市場原理に呑みこまれて「個人」になってしまったようにみえる。「原理」は外から与えられるもの、自ら獲得することとは思わないまま、「状況」をうかがって右往左往してきた庶民のありようが、我が臍を噛むように思い浮かぶ。「一個人」の判断と「裁判における判決」とが齟齬することがあってはならないと、どこかで期待している。裁判員裁判なども、司法の「大衆的装い」として採用されていることを、どれほどの人が意識しているであろうか。ドイツの参審制の「参審員は事件ごとに選出されるのではなく、任期制になっている」「犯罪事実の認定や量刑の決定の他、法律問題の判断も行う」という構えであるのに対して、日本のそれは「司法の許容する範囲」にとどめられている。「原理」が天から降ってきた日本では、私的領域の感懐が公的領域の判断と同一平面でつながっている錯誤を抱いたまま、近代に突入してしまった。その悲哀である。

 だが冒頭に記した「書き落としていたこと」とは、「無罪判決」の理由に関することである。「無罪」とする法的根拠をもたない地平で、いったいどういう「理由」をつけているのであろうか。まず、おやっ、と思うことがある。

《われわれの法は、自分自身、家族、あるいは親しい人物の危険を取り除いたものの罪を許す。》

 と切り出す。「正当防衛」ということを言っているのかと思いきや、こう続ける。

《つまり父親が自分の娘を避けようとして車のハンドルを切り、自転車に乗っている人を轢いた場合、罰せられないのです。》

 日本ならば「業務上過失致死傷」ということであろうが、「罰せられない」わけではない。ドイツの法は、どうなっているんだ?

《しかしラース・コッホ被告人と(ルフトハン機が突入目標としていた7万人がいた)スタジアムの観客のあいだにはそうした近しい関係はありませんでした。したがって被告人は、条文にない根拠によってのみ無罪となります。ここで問題となるのはいわゆる「超法規的緊急避難」です。……この超法規的緊急避難なるものは、ドイツ基本法、刑法以下いかなる法律にも規定されていません。当法廷はその点に看過できない評価上の矛盾を見出します。つまり行為者が自身あるいは近親者を救いたい、それだけのために自己中心的に行動すれば、法はその行為者を無罪とし、逆に無私の心で行動したとき、その行為者は法に抵触するという矛盾です。しかしながら、無私の心を持ったものよりも自己中心的なものを優遇するというのでは理にかないませんし、わたしたちの共同体のめざすものとも一致しません。》

 私の疑問を置き去りにして、ドイツ法の矛盾を突く。そうして次のように述べて「無罪」を言い渡す。そこが秀逸だと私は思った。

《……耐え難いことではありますが、わたしたちは、私たちの法がモラルの問題をことごとく矛盾なしに解決できる状態にはないことを受け入れるほかないのです。……被告人の良心に基づく判断に遺漏なく検討を加えるための法的基準を私たちは持っていません。航空安全法もドイツ基本法も、彼ひとりに判断をさせました。そのことをもっていま、被告人に有罪を言い渡すことは間違いであると確信するものです》

 日本の司法は、もうすっかり行政の下僕に成り果てているから、上記のような判決は、どこを押しても出てくる気配がない。しかもシーラッハは、参審制の「判決」として、つまり(共同体を構成する)庶民の「判断」として、法と対峙し「有罪を言い渡せない」とする。私が象を撫でているのかもしれないが、近代市民社会の「法」の精神の原型に触れたように感じているのだ。