mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第23回36会aAg- Seminar ご報告(3)ヒトとヒトでなしの間

2016-12-03 13:51:19 | 日記
 
 「出家」というのが「ヒトでなし」になることと、京極夏彦の小説を介在させて、昨日考えてみた。出家は超越的に存在することとして、(そのようには振る舞えない)人びとの敬意を得てきた。それが、タイやスリランカなどの上座部仏教の姿である。では、上座部仏教のお坊さんは、タイやスリランカの庶民からはどのように見えているのであろうか。
 
 お坊さんは托鉢をして日々の糧を手にする。彼らは働いてはならない。むろん営業もしてはならない。それは(たぶん)悟りへの道を拓くためであり、煩悩を取り去る修行であろう。庶民が暮らしに必要とすることごとを超越している。それはすでに、神仙の世界である。まだ仏とは呼ばれないかもしれないが、もはやこの世を離脱し(ようとし)ている存在である。仏になるまでにいろいろな段階があり、阿修羅とか阿闍梨とか菩薩という名がつけられている。つまり、この世とあの世という二元論からすると、あの世へ向けて歩きはじめているという意味で「世捨て人」であり、家族を抱え、生計を得るために働き、社会の多くの人びとと自己意識とのせめぎ合いに、それこそ四苦八苦している庶民からみると、別世界の人である。庶民には及びもつかないことであり、尊敬せざるべからず、と昔のひとならば言ったであろう。そして今もタイやスリランカでは、お坊さんは世捨て人として修行に勤しんでいる。その程度にまた庶民も(自分たちの限界を感知し)、敬意を失っていないのであろう。
 
 だが大乗仏教においては、(私の単純な思考では)誰もが仏になれる。厳しい修業は無用といったのが、釈尊であったか親鸞であったかは分別していないが、上座部仏教の修行僧のような厳しい勤行(だけ)が仏になる道ではなく、ごく普通の庶民も、悟りを拓くことができるという趣旨が込められている。親鸞はひたすら「南無阿弥陀仏を唱えて」「他力本願」つまり、「救われることを信じること専一」と見切って、浄土真宗を打ちたてたと、これは2年半前のSeminarでkmkさんが展開したことであった。上座部仏教と大乗仏教との分岐が、北伝、南伝という伝わり方による影響を受けたことも考えられるが、釈尊の誕生と(当時、バラモン教の隆盛の中で屹立した)仏説そのものに、分岐の論理的遠因があったと考えることもできる。クシャトリア階級のゴータマ・シッダルタがブッダになった(それを周囲も認めた)ということ自体、バラモンに対する挑戦であったろう。最高位のバラモン階級を飛び越して「ブッダ/覚醒した人」になった。そのこと自体が、誰もが(バラモンならずとも)悟りに至れるという証だったと言える。いろいろな修行を積んだ後に(厳しい修業は無用であったと言いつつ)釈尊が到達した瞑想による悟りと涅槃は、覚醒が「宇宙と世界の中に自らを位置づけられる」ことであり、それは理知的な認識というよりもさらに深く、宇宙や世界を感知する感性によって成し遂げられるということであったと、私は感じとっている。
 
 kmkさんのSeminar当日に配ってくれた「略年譜」をみると、釈尊の没後200年ほど経って「教団の分裂(根本分裂)中期仏教へ移行」とある。その中身はわからないが、「教団」というのは修行僧の集団(サンガ)のことであろうか。釈尊の(仏説)物語を私が聞いてきた限りでは、僧侶が集団を為すことは「覚醒」の要素としては含まれていない。つまり徹底して釈尊をふくめ、個人主義的に「覚醒」に至ることが仏説の趣旨であったと私は思っていた。だが、修行僧侶たちは(バラモン教との確執もあったろうが)群れを成す。となると、組織論が必要になり、組織運営のシステムが構築され、寄進をふくめて財政の管理も行われ、それが何百年かつづくと、それ自体を維持するために「仏教」が喧伝されるようになる。群れて暮らす人の世の習いだ。つまりいつしか、個人主義的「覚醒」の仏説が「サンガ」による修行僧侶の暮らしの維持に変質していっていたとしても不思議はない。むろん、私が考えるように、変質したわけでもないかもしれない。だが、やはり「略年表」に「紀元前100年ごろ 部派仏教確立」とある。部派仏教というのは、これまで上座部仏教と呼んできたものも含めて、宗旨のちがいを鮮明にして対立しはじめたのであろう。そうしてこのころから、kmkさんが話していたが、釈尊のことばを伝える「諸説」が出回るようになった。「略年表」は「ストゥーパ(仏塔)崇拝が栄える」とも記している。ストゥーパというのは釈尊の遺骨を納めたものだろう。それが信仰の対象になのかどうかは知らないが、釈尊にあやかるものとして敬われたのであろう。そこにも、それぞれに修行する「ヒトでなし」の僧侶を離れて、「信仰の対象としての釈尊」が姿を現したことを感じる。
 
 私がひとつ不思議に思うのは、釈尊の仏説が(なぜ早くに)文字に書き止められなかったのか、である。「紀元前1000年頃『リグ・ヴェーダ』成立」と「略年表」にもある。サンスクリット(の古形であるヴェーダ語)文字もあったわけだから、釈尊の言説を書き留めたものがあっても不思議ではない。しかもインドでは、今、仏教はヒンドゥ教に呑みこまれ、釈迦も菩薩もヒンドゥの神々の一人として位置づけられている。せいぜい、(ヒンドゥの神の一人)釈尊の遺跡として残るばかり。仏教という独自の世界宗教の形は見る影もないと言えるほどである。釈尊より少し後に生まれたギリシャのソクラテスも、言説を文字に残さなかった。だが彼の弟子であるプラトンが逐一記録的に書き残したことで、ソクラテスの言説が今に伝わる。そうして「略年表」が記すように、「紀元後0-100年頃 大乗仏教起こる。中国に仏教伝来」とある。あの、魏志(倭人伝)や漢書(地理誌)など「正史」を逐一文字にして残してきた中国にわたってやっと、教説が文字化され整理され、日本に伝わることになったと思うと、よくぞそこまで仏教が生きのびてきたと、感慨深いものを感じる。
 
 いずれにせよ、釈尊の仏説と言っているものは、Seminarでtkくんも指摘していたように、後の編纂者が自分の解釈を介在させて説いているもの、だから、それを読んで釈尊のことばとして「ありがたがる」のも、読み取ったものの読み取り方が(意識するかしないかは別として)込められていると考えた方がよい。中国経由で日本に伝わった仏教は、したがって、インドばかりか(いまのパキスタンやネパールやブータンや)チベットの、そして漢以降の王朝時代の支那の文化習俗が塗り込められ変質してきていると、みる必要がある。「変質」というのを別に悪くなったという意味で、使ってはいない。経てきた地域の文化が塗り込められることで、より「普遍的」になったとも考えられる。
 
 だが要は、今の日本の私たちが「教説」を読み取るというのであれば、その「教説」の径庭歴史を繙いてみるよりは、現在の社会に身を置く私たちにとってどういう意味を持つかと考えた方がよい。「仏教の由来」を訪ね歩いているkmkさんの話を聞くにしても、いまの私たちにとって、釈尊の仏説である「仏教」はどういう意味を持つかに関心がある。もし今のお寺が私たちの暮らしにもっている意味なら、「葬式仏教」というだけでいいのかもしれない。だが、「ヒトでなし」が「悟りの境地」なのだとしたら、「悟り」は死んでからのものではない。生きている間に「悟り」に達する道をどう釈尊が示していたか、それをこそ聞きたいものだと私は考えてきた。
 
 長く仏教は、私の身体文化だった。子どものころから仏とお墓はいつもかたわらにあった。ご先祖様という感覚も、それなりに身についている。祖母の死後は、毎日母が読経をし、私たち子どもはその傍らに座って(意味も分からず)共に誦経したものであった。そのリズム、音韻、抑揚、いずれも(たぶん)私の身体に沁み込んでいる。だが、ものごころついて世界を考えはじめ、もっぱら学んだ欧米流の近代的思考法の亀裂の片隅から、いつも少しずつ沁みだすように、体に沁み込んでいた仏教文化が滲み出しているのを感じてはいた。
 
 そうして「般若心経」を読んだとき、これは宗教というよりは哲学だと感じた。そのとき、「照見五蘊皆空」というものごと、「眼耳鼻舌身意」という感官すべてが「空」であると、釈尊が深い自己省察の結果、「悟り」に至った思索の回路が「般若心経」にまとめられている。そう思った。つまり、世界と自己との欲望をめぐる「かんけい」が釈尊の自己省察を「悟り」へと導き、そのときの感官をふくめたものごと(事象)の本質についても語っている。まさに哲学なのですね。鍵になるのは、「四苦八苦」。苦を取り去ることを狙いとして思索の回路を設定している。とすると、kmkさんが、「これはややこしいから(今は触れないで)あとに回します」といった、「業」に関係してくる。
 
 以前のSeminar「般若心経を読み解く」のときにも、「なぜ生が苦になるのですか」と質問したのですが、「生老病死」「一切苦」というのは、じつは「生きる喜び」も「苦」であるという地点にまで至る感得をすることではないのか。それを「悟り」と呼んだのではないか、と思った。「愛別離苦」とか「怨憎会苦」というのも、日常の暮らしにおいては「喜び」も「哀しみ」も愛憎も、絶えず生起する。その都度悦び、悲しみ、愛し、憎しむ。人間の感情は起こりくる事象に翻弄される。「こだわりがある」からである。だが、人間の感官や認識のもつ普段の「こだわり」に対して、次元を変えて(因果を突き詰めて)長い目でみれば、それらこもごもが「苦」であると総括できる、と。その「生老病死」を観ている次元が、ヒトの世界からみているのではなく「ヒトでなし」の世界(=死者)からみているという意味で、「悟り」というのは「ヒトでなし」の世界においてみてとれる「覚醒」であるということができる。
 
 では仏教は宗教ではなく哲学ではないかと問われると、そうは思わない。釈尊は、宇宙や哲学を説いたのではない。「苦」からの解放を探ったのだ。つまり、そもそもがアクチュアルな自己救済であった。哲学したのであって、哲学を説いたのではない。しかも、キリスト教(やユダヤ教やイスラム教)のように、神の視点から世界を説いてはいない。あくまでも大自然のなかに生まれ落ち、その中に棲息して思索しているという地平を、たとえ超越的に物事をみる地点を説いてはいても、外してはいない。そこに仏教の持つ感覚が私の身体に馴染む理由があるように思える。その自然観において、仏教は宗教性を獲得している。
 
 もし日本の僧侶が、現在の葬式仏教を変えたいと思うのであれば、暮らしにおける「快感」や「幸せ感」を一度繰り込んで「四苦八苦」を考察して、果たしていまそこから離脱したいと思っているのかどうかを吟味したうえで、言葉を繰り出し直した方がよいと思う。私がこんなことを言うのは、まことにもって不遜なおせっかいだけれども、超越的なものを受け入れる準備のない、今の時代の人びとに言葉を通じるには、まず自らの語りだしている世界の次元をしっかりと限定し、その限定に関する(語るものと聴く者の差異の)相互了解を取り付けてから、言葉を発するようにしてもらいたい。そんなことを、今回のSeminarを通じて感じた次第である。(ひとまず、終り)