mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

不肖の末裔で申し訳ないね

2016-12-13 11:06:14 | 日記

 言語学の泰斗、外山滋比古が『新聞大学』(扶桑社、2916年)のなかで、

 《日本語には標準語がない。だいいちそういうものがあることを知らない人が多い。標準語という言い方を好まない人も少なくない。共通語といってごまかしている。これでは言葉の文化レベルが高いとは言えない。》

 と、きっぱりと切り捨てている。

 岡山育ちの私は、「標準語を話しなさい」と教師にいわれて小学生時代を送った。高松生まれであったために、岡山の学校に転校してきたとき、皆に香川方言を嗤われ、ラジオの言葉を真似て話すようにして教師に褒められ、以来、NHKのアナウンサーのことばが標準語だと、18歳のころまで思ってきた。それがじつは東京弁であり、「標準語」ではなく「共通語」だと(地方出身の)国語国文科の友人から聞いて、小学校教師の顔を想いうかべて、どうして彼女は標準語と言ったのだろうと思っていた。たぶん文部省が「標準語」ということばを採用し、国語学の専門家たちは「共通語」といって「定説」がないことを指摘していたのだろうと、納得していたわけです。外山はこれにつづけて、国語の教育をこう批判する。

 《学校では、文字のことばしか教えない。かつての小学校には日本語の授業はなかった。話す言葉は問題にしない。ただ文字さえ読めればよいという考えに支配されていた。》

 たしかに「読み・書き・そろばん」であった。だが「方言を話すのはやめましょう。標準語を話しなさい」といってはいたのは、間違いなく話し言葉についてであった。しかしたしかに、国語の授業ではなかった。「ふだん」のときである。今でいえば「生活指導」だったのだろう。外山のいうように、「読み・書き」を国語の授業として教わってきたから、「言文一致運動」というときも、漢文調の文語を気取らず飾り立てずに平易に書くこと、それが口語だという程度に了解していたのかもしれない。外山のこの本は、日々目にしている新聞が「現代日本語のもっともスタンダードを示している」とし、その新聞から学ぶ散文こそが標準日本語に近いと考えている。

 《新聞大学は、毎日、標準的日本語の散文を提供している。それに親しんでいれば、散文に対する目が養われる。それだけでなく、理知的なもののみかた考え方を身につけようになる可能性は大きい。/俗に言えば、頭がよくなる、のである。……そう言っても過言ではない。》

 面白い。だいたい「文章読本」の類を読むと、新聞の文章を悪文の典型のように言っているのが多い。外山のように「読み・書き」のことばは「かつての文学偏重から脱し切れていない」と考えなければ、「言文一致」に「口語」を組み込むことがおろそかになるのだ。

 そんなことを思うともなく考えていたとき、山口謡司『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社インターナショナル、2016年)に出会って手に取った。明治維新の前年、1867年に生まれ1937年に70歳で没するまで「博言学」の専門家として「言文一致の表記」に力を尽くした上田万年の生涯と「言文一致運動」の遭遇した困難と、文学者や政治家、官僚たちの言説と行動の足跡が、時代の流れを追いつつ、丁寧に引用をしながら辿られている。

 私などが読んでいると、森鴎外と高山樗牛のドイツ哲学論争など、「言文一致」とかけ離れたところの相克が面白く、目移りがして困った。だが、明治維新以降、知識人たち指導層のあいだにも、漢語漢文、和語和文、西洋諸語(蘭語、英語、独語)が入り乱れる。公式文書としての文語文においても、漢語漢文調にカタカナ書きが入り込む。他方で口語体を取り入れた作家の試みもあって、「表記」そのものが入り混じる。それに加えて、庶民の間には落語などの話し言葉ばかりか、地方の方言が入り混じって、言葉通りに表記すると250通りもの「音」の表記をどうするか思案しなければならない。徴兵制が布かれるようになると、軍隊での日常語も「統一」されなければならない。辞書の語順配列も、いろは順にするか五十音順にするかにたどり着くのにどれほどの障壁を一つひとつ片付けていったのか、いやはやご苦労様でしたと労いたくなる。

 思わぬところで口語への統一がすすむ。「小学校唱歌集」。プロテスタントの讃美歌の曲に合わせて日本語の歌詞をつける。道徳的な刷り込みを持ち込む官僚たちに対して、吃音矯正法を研究していた井沢修二の功績もあって「言文一致唱歌運動」が広がる。権威に身を寄せて「言文一致運動」を白眼視した鴎外と異なり漱石は、自らの作品を通じて「言文一致」を率いたと上田万年も見ていたようだ。漱石の「弟子」筋の人たちに「小学唱歌運動」に力を入れた人たちも多い。漱石の作詞した「童謡」も紹介されている。

源兵衛が 練馬村から
大根を 馬の背につけ
お歳暮に 持てきてくれた

 にはじまる6節の歌詞が並ぶ。

源兵衛に どうだと聞いたら
さうでがす 相変わらずで
こん年も 寒いと言った

 最後は、

源兵衛の 烟草あ臭いが
源兵衛は 好きなぢぢいだ
源兵衛の 馬は悪馬だ

 で終わる。ひとつの物語が、展開する。いかにも教師仕事を嫌った漱石の面目躍如たる趣がある。

 上田万年の人脈によって身をたてた博言学の高野辰之が、のちに「文部省唱歌」となったこの運動を引っ張る。それが言文一致運動を大いに前進させたと、この本の著者山口謡司はみる。私は、高野辰之の名は知らなかったが、「故郷」「朧月夜」「もみじ」「春の小川」「春が来た」などの作詞者と聞くと、ほとんど我が身の一部になっている「歌」だと得心する。

 上田万年は昭和12年に亡くなる。山口謡司は、因縁話のようなエピソードで、この本を締めくくっている。

 《万年の娘・文子は、円地文子として1960年以降になって評価されることになる。万年が思い描いた「言文一致」は、じつは、この円地文子が活躍した1960年頃になってやっと本当の姿を見せたのではなかったか。》

 そうか、1960年と言えば私が高校3年生。ということは、私たちの世代は、まさに「言文一致」の世相にどっぷりと浸って言葉を身につけてきた、と言える。外山滋比古のいう「標準日本語」を散文として担う世代であったのだなと、振り返る。不肖の末裔で申し訳ないねと、上田万年に連なる人たちに詫びを入れたくなった。