mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

喪中はがきへの応対

2016-12-07 15:19:06 | 日記

  この時期に、喪中はがきが送られてきます。こちらが年を取ったせいもあり、また、知り合いも年を重ねていますから、それが年々多くなります。父母が亡くなったというのは、たいてい平均寿命を過ぎている高齢、なかには百四歳という方もいますが、ま、天寿を全うしたということでしょう。むろんご遺族にとっては、何歳であれ深く思うところがあるでしょうから一概には言えませんが、天寿の「寿ぐ」心もちが漂っても不思議ではありません。

 でも還暦を待たず、連れ合いを亡くしたというのは、たとえ病に伏せる何か月間か何年間かがあったにしても、言葉を失います。私は喪中はがきをくださった方しか知らないのですが、その連れ合いが病で早期退職をしたと数年前に耳にしていましたから、この間をどう過ごしていたろうと思料するだけで、思いが及ばない重さを感じてしまいます。けっして介護・介助がたいへんという手間暇のことではないのです。もちろん日々かたわらに伏している人がいることは、手間暇としてもたいへんであろうとは思います。が、たとえそれがなくても、命が限られた人とともに何年間かを過ごす心労は、おもうだに気が塞いでしまいます。

 「心労」というのは、しかし傍観者の見立てですね。夫婦のかたちというのは、人それぞれですから、その「かんけい」における心遣いを「心労」と(量的負担の感触を入れて)感じるのは、すでにそれだけ「かんけい」が切れかかっている見方かとも、思います。そういう意味で、傍観者の見立てと思った次第です。はがきをくださった知り合いは、もし日ごろの私とのかかわりに見せる人柄の通りだとするならば、明るく淡々と、ものごとへのこだわりを感じさせない向き合い方をなさる方ですから、たぶん、連れ合いの方の人生がまっとうされる充足感への「心遣い」が、坦々と繰り出されてきたのではないかと、推測しています。

 とするとむしろ、その連れ合いが亡くなった後の方が、ご当人の心もちに重く欝々とのしかかってくるのではないかと思うと、どう言葉をかけていいのか、はがきを受け取ったのちの返信に苦慮しているというわけです。

 十歳年上の知り合いが亡くなったことを、喪中はがきで知ったということもあります。むろん長い無沙汰をしていた私の方に問題があるのですが、言葉を失います。ご遺族というのも、還暦ほどの娘さんお一人だけ。亡くなった月日をみるとちょうど私が北海道へ旅に出ていたときです。せめてお線香でもあげてとは思いますが、これはまた、まったく私の慰めのようなものですから、ちょっとはばかられます。文を送るにしても、どう言葉を紡げばいいのか、困っています。

 案ずるより産むがやすし。一人住まいの娘さんに電話をした。ちょうど父親の住んでいた家へ引っ越すために休暇をとっていました。文学者であった父親の蔵書を、父親が務めたこともある近所の文学館に寄贈する話や、父親の生家を取り壊して片付けることや、要するに遺産相続にかかわるあれやこれやをしていて、たいへんなのだとか。父親が付き合いのあった出版社のオーナーが、蔵書が欲しいから売ってくれといって、うるさく電話してくるので困っているとか、父親と付き合いのあった作家がいろいろとアドバイスしてくれて助かったとか。昔(それこそ何十年も前の)馴染みであったことを思い出してくれたのか、明るい元気そうな声が聴けました。すでに亡くなっている母と妹の仏壇などを父のとまとめて新らしくするから、お線香をあげるのは春ころまで待ってくれと丁寧な応答がありました。心底、ほっとしました。これまでの無沙汰を知人の文学者が許してくれるかどうかはわかりませんが、途絶えていた交通がかすかにつながったことに、安堵しています。

 不義理をしてきたことが、こうして喪中はがきで一つひとつ始末されていきます。取り返しのつかないことが、思えば多いのですが、生来の怠け者ゆえ仕方ありません。彼岸に行ってから詫びる積りで、いましばらく待ってもらおうと願っています。