mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

無菌室の中の子どもたち(2) 隔靴掻痒の「いじめ」報道

2016-12-12 10:42:13 | 日記

 ある地方都市の市立中学校の4階の窓から一人の少女が転落した。転落した少女aが半年ほど前からグループをつくっていた少女bとcとが、「事故」の後事情を聴いた担任に「心当たり」を話していた。彼女たちはかなり動揺しており、母親ともども県が派遣したスクールカウンセラーの面談を行っている。相前後して行われた学校や教育委員会の「調査」を総合すると、以下のようなことがわかる。

① (a、b、cの)グループがクラスから孤立していたということはない。
② (転落事故の起こる)二週間ほど前(3/3頃)からb、cがaから離れようと相談し、自分たちからは話しかけないようにした。aの言動についていけなくなったというのがその理由。aは気が強く、感情の起伏が激しく、気分にむらがあると、b、cばかりでなく、クラスの他の生徒や担任教師も話している。
③ (②のb、cがaから離れようという)トラブルについては周りにいる女子生徒も聞いていて、aは、クラスの他の女子生徒も自分を避けるようになったと感じていたようだと、aと同じ部活の他のクラスの女子生徒dが話している。また、
④ LINEのあるネットワークでこのトラブルについて話題になっており、aについての「悪口」も載っていると生徒dは話しているが、教育行政は確認できていない。

 上記の事情聴取と調査から、教育行政は「今回の事故は、グループ内のトラブル、およびそれがクラス内に知られているとaが感じ、クラスに居ずらい思いを持っていたことが、原因にひとつとなっていることが考えられる」と、(ひとまず)結論したのであった。

 講師・Rさんの「状況報告」は、聴いていて、ずいぶんスマートに感じられた。現場の教師からすると、もっと踏み込んだ表現があるのではないか。早速、ささらほうさらの面々から「aの家庭は安定していたの?」「aや友達のbとかcの日頃の生活態度はどんなものだったの?」「勉強はできる方だったの?」となどと質問が飛んだ。「いやじつは、aは男の子たちと夜遊びをしている姿が見かけられていて、同級生の親御さんたちの評判もあまり芳しくなかった」「勉強も低空飛行だった」と、応えが引き出される。詳しく訊くと、おおむね次のようなことがわかった。

⑤  1年の時から学校を休んだり、体育の授業を見学したり部活を休んだり、保健室に来ることが多かった。足が痛い、腹痛、頭痛など「体調不良」を理由とし、その都度父親から連絡は入っていた。「体調不良」の原因は、(医者にも診せたが)はっきりしなかった。2年の9月から欠席が多くなった。
⑥ 母親とは早くに離別し、父親が一人で育てている。父親も3/3(b、cが「aから離れよう」と話し合った頃)よりaの様子がおかしいと感じていたこともわかった。飛び降りる2時間ほど前にaは姉に「助けて」とメールをしている。姉は返信したが、aはそれを読んでいなかったことがのちに判明した。
⑦ 別の中学校の男子生徒と事故の前日夜10時ころまで夕食をとるなど過ごしている。これはその男子中学生が「事故」を知り、そちらの学校を通してaの中学校長に知らせが入った。aはその男子中学生に「クラスで無視されている」「死にたい」と漏らしていたそうだ。

 そう聞いてみると、上記「事情聴取」の②や③や④が腑に落ちる。「aに適う子はいなかったよ」と公言する教師も、何人かいたという。つまりaに付き合うクラスの子はbとcしかおらず、他の生徒たちは敬して遠ざける格好だったのだろう。中学生や高校生の年代になると、公的な関係と私的な関係がしっかりと区別できるようになる。クラスの(集団行動時や掃除などの)「生活斑」とか授業時の「学習斑」などの公的な関係ではそれなりに「かかわる」が、それ以外の私的関係においては「棲み分け」るように言葉も交わさないようになる。前回の「無菌室の中の子どもたち(1)」の中で、「類は友を呼ぶ」などと古い言い方を引いて生徒同士のグルーピングの在り様を一部指摘したが、それはこのような「棲み分け」を意味している。

 とすると、今回の事故の発端は「いじめ」というよりも「対人関係のもつれ」とみた方がいいのではないか。Rさんも、「そうだ、だから教委は『いじめと断定する資料はもっていない』と最初から態度を一貫させて、『対人関係のもつれ』をほぐすように力を注いだ」と話す。aは入院加療中であり、精神科の医師の許可が出なければ事情を聴くこともできないというので、父親を経由して接触するにとどめていた。aと同じグループに属していたbやcに対するカウンセリングも(母親同伴で)続けるなど、十分配慮した応対をしている。

 ところが、3か月を過ぎたころ(このとき学年はひとつ上がって3年生になっていた)、「いじめが原因」と本人と家族が市会議員に訴え、マスコミがそれを取り上げた。二紙が《転落背景に「いじめ」》《「いじめ苦に」自殺未遂》と報道。

 《3月にけがをした生徒の保護者から「いじめがあった」との趣旨を記した文書が同市議らに届けられていたことが分かった。市側が「いじめと断定する資料はもっていない」などと公表してきたことへの不満がつづられており…市長は…市議会全員協議会で「(保護者や生徒と)信頼関係が構築できていなかったことは重大。反省しなければならない」と述べた……》

 あとで詳しく聞くと、ある市議が保護者に話を持ち掛けて(不満を)「文書」にし、それを議会で問題化すると同時に、マスコミに流したのであった。こうして、教育行政の問題となった。では市長はどうして、「反省しなければならない」と述べたのか。ここには、文科省が「定義」する「いじめ」概念があった。文科省は「本人がいじめられたと思えばいじめである」と、「定義」している。とすると、今回の場合、本人と保護者が「いじめがあった」と訴えているのであるから、文科省のいう「いじめ」に該当する、というわけだ。市長が「信頼関係が構築できていなかったことは重大」と、保護者・本人と教育行政・学校の「信頼関係」に問題があったと表現したのは、いわばぎりぎりの「市議への回答」と言ってもいい。結局、「いじめ対策推進法に基づく第三者機関」を設置して「調査」することになった。

 というのも、いかに教育行政当局といっても、中学生aの夜遊びや性格的なきつさや「自殺の危険因子」について議会で発言するわけにはいかない。まして、aが入院中で精神科医のカウンセリングを受けているために「事情を聴くこと」ができなかったことも、つぶらかに説明することができない。議会でそうであってみれば、ましてマスメディアにそれらの「事情」を公表して、教育行政の立場をあきらかにすることなど、及びもつかないことなのである。

 にもかかわらず、市議は鬼の首を取ったように「当局と学校はいじめを隠蔽しようとしている」と追及する。メディアも、表層を撫でた取材と記事化で、コトの深層に踏み込むことはできない。Rさんの話を聴いていて、あたかも「いじめはいけない」という「正義」があり、それを隠蔽する官僚体質が蔓延していて、市議もメディアもそこを衝いて現状を変えようという「正当性」を掲げているつもりかもしれないが、それはどうみても、表面をなぞっているだけ、起きている事象の肝心なところには届いていないと思えた。隔靴掻痒、とうてい社会のモンダイに手がかかっている状態ではない。

 それに比したら、学校や教育委員会の対応は、現実存在の子どもたちの現状に踏み込もうと手を尽くしていると思える。弁護士と心理療法士、精神科医師によって構成される第三者機関は、教委の報告を受け、関係者の話を聞いて「報告」をまとめるであろう。それがはたしてどれだけ深層に踏み込めるのか、靴底が厚くて、とてもかゆいところに手が届かない。そう思うばかりである。(つづく)