mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

深い夜

2016-12-16 10:44:47 | 日記

 TVのニュースでシリアのアレッポの制圧に政府軍が乗り出し、戦闘が激しくなっていると報じ、一人の30歳代の男が瓦礫の街に座り込んで「何処へ行けばいいのか」と頭を抱え込む映像が流れる。それに重ねるように昨日(12/15)のTV、BS1のドキュメンタリー番組・「消える難民の子どもたち」を観ていると、つくづく寄る辺のない庶民の哀切というのを感じるばかりであった。

 シリアの戦乱で身寄りを失った18歳と15歳の男兄弟がギリシャにたどり着く。目指しているのは父親が働いているドイツ。だが、EU各国は難民の受け入れと通過を拒み、動きが取れない。もちろん労働ビザもないから、失業者の多いギリシャで働き口を求めることもできない。難民としてでなくドイツにわたるには、「闇業者」に頼まなければならないが、最低でも12万円を必要とする。持ち金は底をつきつつある。そこへ、シリアで亡くなったと思っていた妹たち二人が生きていると、知人から知らされる。携帯電話とインターネットがその間をつなぐ。喜ぶ二人、迷った末にシリアへ帰ることを決意し、有り金をはたいてトルコ国境近くまでの鉄道のチケットを手に入れ乗車する。その先は、川を渡って国境を越え、歩いてシリアまで行くという。つくづく日本の私などは別世界に暮らしていると思う。彼ら難民と私たちを結ぶ結節点が、まったく見えない。うすうす気づいていながら見ていないのかもしれないが、私には見えない。

 桐野夏生『夜 また夜の 深い夜』(幻冬舎、2014年)が、その「見えない」結節点を抉りだして見せている。この作家はこういうところに目をつけて来たのかと感慨深いものを感じている。

 舞台はナポリ。母親と二人、放浪するように暮らしてきた18歳の少女。容貌と言葉から日本人(らしい)と思っているが、国籍もパスポートももっていない。母親の放浪は、何かに追われ身を隠して逃げ回っているゆえらしいが、それがわかるのは家出をしてのちのこと。ナポリの街に逃れてきたアフリカ系不法難民の少女たちと一緒になり、身過ぎ世過ぎをしていく過程で、彼女たちの身の上もだんだんと明らかになって行くのだが、その苛烈なことは、上に記したシリア難民の兄弟をはるかに上回るものを描き出す。その反照として、この主人公少女の「日本」との関係が緩やかに明らかになって行くのである。その照らし出されている「日本」が、私のいう「見えない日本」なのだと徐々に滲み出すというか、読む者の心裡に沁みだしてくる。

 この「心裡に沁みだしてくる」ところに、先述の「うすうす気づいていながら見ていないのかもしれないが」という感触が生まれる。だがまだ「見てはいない」。TVの報道やドキュメンタリーなどで「つくづく寄る辺のない庶民の哀切というのを感じるばかりであった」というのは、ただ単に小説を読んで慨嘆するのと同じなのだ。ニュースとかドキュメンタリーといえども、我が身に突き刺さる棘を感じなければ、フィクションを読むのと変わらない。棘を感じるのは「切実さ」だ。登場人物への共感性の根柢には舞台の仕立てに関する「現実」の共時性、共有性が欠かせない。だが私たちは、海に囲まれ、日本国という国境に囲われて、「現実」の共時性も共感性も、棘を抜き去って感じられる世界に住まわっている。桐野に言わせれば、「夜」のない明るい社会ばかりなのかもしれない。

 もっとも「とげぬき地蔵」にお参りする年寄りとなれば、いまさら何をほざくか! とお叱りを受けるかもしれない。かほどに苛烈ではなかったが、それなりに恐れおののいた、敗戦前後の「深い夜」に思いを致して、「とげぬき」に感謝をしているのではありますが。