mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

宗教的に考えるとは、どういうことか(続)――系統発生の欲求

2016-12-04 13:33:54 | 日記
 
 政治思想史を専門にする中島岳志が二十歳のころの、こんなエピソードを紹介しています。
 
《阪神大震災の被災地を写したTVの映像で…瓦礫をかき分けているお婆さんに…カメラが近づき、アナウンサーが声をかける。「何をお探しですか」と訊く…「位牌を探しています」と言った…》
 
《さらにその一ヶ月後(被災地で)…何もない空き地でおじいさんが一人凧をあげている。一心不乱に三十分以上も続けているので私は近寄って「ずっと昔からここで凧揚げしてはるんですか」と訊くと、おじいさんは「いや、最近やな」というんです。つづけて「震災でな、家内を亡くしてな。俺な、難しいことようわからんけど、こうやってると家内と手を繋いでる気がすんねん」と言った…》
 
 この二つの出来事に出逢って彼は、自分の中の「空白」に気づいたと記す。それは(位牌を探すということ)、(凧をあげて亡くなった家内と手を繋いでいると思うこと)というリアリティが(自分には)欠落していたと思った、と。戦後政治思想のリアリティを考察し考えてきた彼としては、「阪神大震災の物理的揺れよりも、もっと大きな揺れを感じた」というわけです。亡くなった人たちと共に居るということのリアリティを忘失していた「空白」に出逢ったのですね。
 
 11月26日のこの欄で、《「ふるさと」という情緒》と題して映画「湾生回家」を取り上げ、私たちが「生きる」
根柢には、まず「情緒」があると思ったことを記しています。その「情緒」のさらに根っこには、「(自分とかかわりのある)死者とともにある」という感覚が欠かせないのではないか。「死者」というのは、「目に見えない人たち」です。そう言いかえることによって、(自分とかかわりのある)死者ばかりでなく、類的に資質をかたちづくり受け継いできたありとあらゆる死者が、「ともにある」ことへとつながります。
 
 もっと広げて進化生物学的に言えば、「生きとし生けるものすべて」とつながっても来ると、私は感じます。なぜそう感じるのか。そう感じることがなぜ、根っこだと考えるのか。生命論的な次元でいえば、系統発生の進化を受け継いでいま私がここにいるという感触が、何処から来て何処へ行くのかという(途上的な浮遊する)「不安」に錨を降ろすことができる。それは(途上的な浮遊する)事態を解消するものではまったくないが、その長いスパンに身を置く自らの位置を見定めることによって、(途上的な浮遊する)ものという自己規定がなされるのですね。そうしてみると、系統発生の鎖のひとつを担ってはいるが、ゴミみたいなものです。いや実在それ自体は、137億年のビッグバンからとはいわず35億年という地球上の生命の歩みからみても、ゴミにもみえない超超微生物にも値しませんね。そうやって自らを位置づけてみると、日々の、ありとあらゆる事象も、ヒトとヒトとの「かんけい」も、あくせく悩むほどのことかと「小さく」みえます。「諸行無常」が腑に落ちる所以ですね。これはずいぶん超越的な高みから自分を見おろしている視線です。神の眼かもしれません。これは、生まれてくる前から私たちの体内に埋め込まれていることが(そうであることの証を求めて)欲求していることかもしれません。「系統発生の(求める)欲求」です。それを「わがままな遺伝子」と名づけてDNAの戦略が私たちの行動を規定していると説明すると、何だか自分の意思や責任が解除されたようで、身軽になるかもしれません。
 
 
 ただ、私たちの実在自体は、そうしたことを忘れて生きていくことができるし、たいてい日々の生計に追われてそうしています。その「小さな」舞台の上で、生きているときの感性や感覚、それがかもしだす情緒は、「かんけい」の中ではぐくまれ、「自分」という意識を起ち上げて「自由」に生きているという観念をつくりあげてきました。もちろん逆に、「不自由」で思うに任せないという観念も、同等にあるわけです。神の眼から見ると取るに足らない存在が生き続けるには、「小さな舞台」にふさわしいモチーフやインセンティヴが必要になるのだと、私たちは生育中に身につけて来ています。そういう意味では、「自分」も「自由」も、生育っていくすべての「環境」という社会的な「かんけい」のものであって、個体が単独にオリジナリティをもつものではありません。つまり「系統発生の欲求」は「人間性」とか「個性」とか「人格」や「才能」というふうに、社会的な適応の舞台に応じて子細に意味づけられ、実在のモチーフを支え、インセンティヴに転嫁して称揚されたり抑制されたり、価値づけられているにすぎないと言えます。「実在の(求める)欲求」ですね。
 
 この「系統発生の欲求」と「実在の欲求」とをリンクしているのは、「ヒトという存在の特殊性」です。そもそもその二つの「欲求」が分裂するのは、神の眼をもつような(他者から自己をみるという)超越的な視線をヒトがもっているからです。旧約聖書は「智恵の木の実」を食べた原罪と比喩的に呼ぶでしょうが、進化生物学的には、由来はまだわからないにしても、ヒトがそのように進化してきたことは、事実が実在します。それを「原罪」というのは一神教的な神の眼からの託宣であって、自然の中に生まれ落ちてそこに棲息するヒトが、そのような「特殊性」を身に備えているという事実から、原始宗教は胚胎され、ある時期にそれ(ヒトがその観念をつくりあげたこと)に気づき、多神教として、「社会関係」の形成とともに構築してきたのでした。というか、そのように構築してきた種族や部族が適応することができて、現在に生きのびてきているのです。
 
 そう考えると、政治思想史を探究する専家はもちろん、普通に暮らしていくうえで、いつしか身につけた「系統発生の欲求」によってかたちづくられた感性やイメージや言葉の、拠って来る由来があることに、知らないふりをすることができなくなります。冒頭のエピソードの「おじいさん」が「俺な、難しいことようわからんけど」というのは、この「拠って来る由来があること」を感知していることを示しています。目に見えないものに触れるというのは、感性の次元で超越的な由来に触れることです。そのようにして「知的」にではなく、いわば瞑想的に「系統発生の欲求」を満たそうとする振る舞いが「宗教性」と感得されるところなのではないでしょうか。
 
 我が身に堆積している系統発生する「かんけい」のことごとを感じとることなしでは、「情緒」は根拠を失います。そういう意味で、超越的な実在の根拠に足をつける「宗教性」は(それがどのような神や仏であれ)あらゆる「かんけい」の感知を意味する「こころ」の根っこに埋まっていることなのですね。ゆめゆめ、粗末にあしらってはいけませんよ。