mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第23回36会aAg- Seminar ご報告(2)出家するとは、どういうことか

2016-12-02 13:31:37 | 日記
 
 お酒を飲みすぎたわけでもないのに、翌日はものを書く気にならなくてぼんやりと過ごしていると、以前に書きました。Seminar翌日はそんな気分で、ぼーっとして本を読んでいました。京極夏彦『ヒトでなし』(新潮社、2015年)。どうして図書館でこの本を借りたのかは、皆目わかりません。予約していたわけではありませんから、たぶん、書名と著者名が目に留まったのだと思います。この著者は妖怪変化が出て来そうなタイトルの小説をいくつも書いています。私は小泉八雲や聊斎志異など、その手の本は嫌いじゃありませんが、怖くて仕方がありませんでした。「まだ呪術的な感覚が残っているからだ」と誰だったかにからかわれたことがありますが、慥かに八百万の神々やアニミズムなどの実在を感じるほど、私は霊異を信じている傾きが強くあり、その引っ掛かりでこの作家の名と小説は気にかかっていたのだと思います。手に取って読んだことはありませんでした。さてこの小説、なにしろ576ページもある分厚い本です。このSeminarの「ご報告(1)」を書いた翌日にも読み終わらず、昨日やっと読了。ところがなんと、この本の主題が、「仏教的に考えるとは、どういうことか」にどんぴしゃり。そういうわけで、今日は「Seminarご報告(2)」として、この本のことに触れて書きます。
 
 一人のサラリーマンが娘が事故死したのをきっかけに、離婚し、仕事を首になり、「ヒトでなし」になったと自意識が出来上がります。そうすると、人の道に縛られず、世の法からも束縛されようとそうでなかろうとどっちでもよくなり、つまりは生き方についての正しいも正しくないも、どうでもよくなって「執着を離れる」。むろん世の中には、犯罪を犯した人がたくさんいます。その人たちが〈ある種の「かく生きるべし」という生き方〉をどこかに(なんらかのかたちで)持っているから、「逃げ隠れ」したり、「罪の意識」にさいなまれたり、逆にまったく性癖のように(快楽的に)幼児殺害をして恬淡としている犯罪者に対して「赦せない」と憤ってみたりします。そういう世の人びとを登場させて、「執着とは何か」を問うているのが、この小説の主題だと、私は読み取りました。
 
 そういう点からみると、第23回36会aAg- Seminarのやりとりは、人の道からまったく外れずに、仏教のことを論じていたのではないかと見えてきます。講師のkmkさんの仏道への入口になった浄土真宗のお坊さんの「説教」も、「(自分の死がいつも間近に迫っていることを自覚して)一瞬一瞬を大切にする生き方」を説くものでした。そうすることによって「過去や未来への執着」を取り去ろうという趣旨でしょう。だが、「一瞬一瞬を大切にする生き方」自体が、「生への執着」を意味しています。「ヒトでなし」は、それすらもどっちでもいいと「超越してしまう」のです。
 そういえば釈尊・ゴータマ・シッダルタは、釈迦族の王子という立場と城を捨て、家族を捨てました。思えば、「人の道」に外れる振る舞いです。だから「出家」というのだと言われるとなるほどと思うのですが、つまり仏道に入るということは、人の道から出ることにほかなりません。いわば世の常の埒外に身を置くことによって、世の人たちからは「超越」していると「尊敬」を受けるのです。僧侶に対する私たちの「尊敬の念」は、彼らが説いていることの理解からではなく、彼らの超越的ありように対する「敬意」に基づいていると言えます。「お経」は何を言っているかわからなくていいのです。私たちには理解さえもできないことを常日頃考えている「超越的」ありようがありがたいのですね。
 
 話は少し外れますが、Seminarの場面でkmkさんは「私は(仏陀を)信じているんよ」と話していました。それに対して「何を根拠に信じているのか」と問い返しがあり、彼女は絶句していました。でも考えるに、ブッダが「悟りを開いた人/覚醒した人」であるという(一般的な)了解はあるけれども、その「根拠」=「悟る/覚醒」というのがどういうことなのかを分かってしまったら、あちらにもこちらにもブッダが誕生してしまいます。「信じる」というのは、(自分には)わからないが(釈尊が悟ったということ)をまるごと承知することなのですね。だからその信仰の根拠を問うということ自体、無理押しというものです。
 
 さて「私たちには理解さえもできないことを常日頃考えている「超越的」ありようがありがたい」という感覚は、日々あちらこちらで見かけます。宇宙論をやっている物理学者たち、それよりさらに超越的に抽象の極みを取り扱っている数学者たちにたいする「敬意」は、なぜか私たち世俗にまみれて暮らしているものも、胸中に抱懐しています。かつては「学者」一般に対して抱いていた「敬意」ですが、近ごろはすっかり崩れてしまっています。ことにフクシマ以降、学問的な「権威」の振る舞いや御託は、ことごとく身過ぎ世過ぎの飾り物に過ぎない虚飾となってしまいました。それにしたがって、私たちは超越的なものに対する「敬意」も見失ったのかもしれません。
 
 とすると、最近のアメリカにおけるトランプ現象も、我がことのようにわかる気がします。「知的権威」があれこれと取り繕って言っていることは虚飾にすぎない、結局彼ら(知的権威)の何らかの「利害」に絡まる「真意」が隠されているのだと「陰謀論」を打ちたてる。とどのつまり、「直に利害の話をしよう」とホンネ剥き出しにしてやりとりをするというわけです。そういったことが一年ほどにわたって公然と世の中を覆ったという意味では、アメリカもすごいと思いますが、日本だって大阪を中心にここ何年も「大阪都だ」「盛り土だ」とやって来たことと、そう変わりはありません。
 
 「超越的なことへの敬意」が失われてきたのは、もっと前からではないかと思いますが、今ここでは深入りをしません。ただこうは言えます。「(世の人々の)超越的なものへの敬意」が失われてきたのに気付かずに、「超越的な存在」が「敬意」を前提にして振る舞ってしまってきた。その結果、今になって亀裂が露わになり、ある日一挙に「権威」の座から滑り落ちてしまった。それが、アメリカ大統領選であった、と。
 
 kmkさんに「お説教」をした僧侶も、すでに「(世の)敬意」は失われているのに、わかりやすく説こうと世俗に媚びた説明をした結果、人の道を踏み外していることを忘れてしまったのではないでしょうか。京極夏彦の作品は、それを思い起こさせてくれました。「ヒトでなし」になろうと修行しているのが僧侶だとすると、その僧侶の発言やありようは、「人の道」に対して批判的に屹立していなくてはなりません。fjtくんが問うたように、「(その僧侶は)どういう立場から、いつどこで誰に向かってそのように説くのか」というのは、それ自体が「超越的存在」を認めないという世俗的な発言です。僧侶は「超越的」と思って話していますから、自分は普遍的なことを言っているにすぎないのです。だが世俗の人に向けて話すのであれば、僧侶自身が世界の違う地点から違う世界に身を置いている人たちに向かって「お説教」しているのだと、立場を明示しなければならないのではないでしょうか。あるいは、その立場の違いを常に明確にするような言葉を使い比喩を用いるという心がけが必要なのではないでしょうか。
 
 Seminarの最後の方でmdさんが「宗教は恐ろしい」と口にしたのは(彼女が何をどう受け止めたからかはわからないが)、ある意味では本質をついていると思います。人の道から一歩も出ずに「宗教」にのめり込むのは、できないことだからです。宗教への道は「ヒトでなし」になる道へ踏み込むことです。では、どうして「ヒトでなし」の超越的存在が、人の道というか、人の生き方に「お説教」をすることができるのでしょうか。ここに、上座部仏教と大乗仏教との分岐点があります。kmkさんは、はじめ浄土真宗を学び、その後に上座部仏教に関心を寄せています。その過程で、kmkさん自身の内側で、「人の道」から「ヒトでなし」への転換があったのでしょうか。そういうことを聞きたかったなあと、私は思っています。
 
 ただひとつ、「ヒトでなし」の生き方と「36会」を「さぼろうかい」と命名したセンスとは、どこかで相通じるものがあるように感じています。Seminarのはじめのところでhmdくんが、「私しゃその辺のことはわかっとるから、(上座部仏教の)話しは聴かんでもいいわ」といったのは、いかにも「さぼろうかい」命名者らしい言い方だと思っています。彼はかつて「野垂れ死にするのが私の望み」といってもいます。いかにも「ヒトでなし」ではありませんか。
 
 そう言っていると、
「では今生きているのはどうして?」
 と人の道を生きている方からは質問がありそうです。たぶん彼は
「そんなことたあ、どっちでもええ、思うとんじゃ」
 と応えがありそうです。
「死のうとも思うとらんし、生きなきゃとも思うとらん。どっちでええ」
 と。
 
 この小説『ヒトでなし』の主人公も、そのように自問自答しながら成り行きに任せて漂っているのでした。追伸。この小説の表題の脇に「金剛界の章」とサブタイトルらしきものがついています。ということは、京極夏彦は、この主人公の「ヒトでなし」修行人生をまだまだ書き継ぐつもりのようです。たぶんこれは、この作家自身の「仏道探訪」だと思いました。