mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

我が身の現在の拠って来る所以を始末する

2015-03-16 16:29:43 | 日記

 風もなく晴れわたり、暖かい。ウメもハクモクレンも咲き誇り、メジロやヒヨドリが嬉しそうに声を立ててはしゃいでいる。

 

 浦和へ一か月分のコーヒー豆を買いに行く。裏道を抜け、浦和駅のコンコースを通り抜けて、往復2時間。15000歩余。歩き始めは少し冷えるかと雨着の上をザックにしのばせたが、それどころか汗ばむくらい。啓蟄から十日、虫ばかりか人も出歩くことが多くなった。月曜日というのに駅前の通りは混雑している。

 

 帰りに伊勢丹へ寄って焼酎を買い求める。一つは自宅用、もう一つは来週の福島の秘湯へもっていくやつ。もっていくやつはウンと奮発して、贅沢なものにした。中身は飲んでみなければわからないが、ふだん飲んでいるヤツの3倍くらい値が張る。それでも純米大吟醸の半分くらいだから、安いものだ。ワインと比べたら、雲泥の差である。

 

 買ったものをリュックに入れ、リュックの雨着やコーヒーをデパートの紙袋に入れて、下げて歩く。陽ざしが強く感じられる。行くときは日向を歩いていたのに、帰りには日陰をたどるように歩いている。お昼が過ぎようとしている。それに荷物もあるから、図書館によるのを中止する。

 

 また裏通りに回るが、人が少ないというわけではない。車が通らない。お昼頃とあって、八百屋や肉屋などの買い物客で賑わっている。来るときには、浦和競馬場でランニングをする幼稚園児の集団があった。30人は超える。競馬のない日には、人一人が通り抜けることのできる馬場への扉が開け放ってあって、誰でも出入りできる。通り抜けもできる。馬の走る砂地を走ることもできる。もちろん幼稚園児は砂地ではなく、馬場に囲まれた走路内側の芝生と小さな植込みに囲まれた池の脇を走っていた。一緒に走る保母さんもいる。走路のところどころに立ってルートを外さないようにみている人もいる。でもいい場所をみつけたなと、思う。帰りには、子どもたちはもう引き上げていて、静かな競馬場の休日に覆われている。

 

 私の前をお年寄りの女の人が、何かぶつぶつつぶやきながら、よたりよたりと歩いている。その前に、息子らしい五十年配の男がスーパーのビニール袋を下げて歩いている。背中しか見えないのに、なぜかその男が腹立たしげなのが分かる。年寄りの女は「膝が痛いんだから、そんなに早くは歩けないのよ」と声にならないくらいの声でつぶやいている。ちょうど追い越そうとした私に聞こえる程度だから、前の五十男には聞こえない。私には、五十男の腹立たしさに、昔の自分をみているような気がした。もちろん遅いことに腹を立てているわけではない。母親がそれくらいの速さでしか歩けないことは、たぶん重々承知だ。でも、自分の身内がそうなってしまっていること、それに対して自分が何も手助けできないということに、腹が立っているのだ。年寄りの方にすると、息子に済まないと思っている。ひょっとするとほんの少し前までは、自分もさかさかと歩いていたかもしれない。だから、愚痴をこぼす。聞こえるように言うとイヤミになるから、聞こえないように声にする。それを後ろから来た、見ず知らずの他人が聴いていた、というわけだ。

 

 そうなんだよな。齢をとるということは、自分に対して言い訳をしながらでも、我が身の現在の拠って来る所以を自身に確認しておかなければ、始末がつかないことなのだ。そんなことを考えさせてくれた。

 

 あすは、さらに暖かくなるという。水曜日の「晴れのち曇り時々雨」の予報が「晴れ時々曇り」に変わった。山の会を人たちを案内するのが、楽になる。