mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

少しは品位が備わってきているかしら

2015-03-01 20:35:38 | 日記

 ひと雨ごとに春が近づいていると感じられますね。梅の花も開いて、香りを漂わせています。近くの公園に植えられたカワヅザクラが日々あらたに何輪かの花をつけて、春遠からじを告げています。

 

 昨日は、高校卒業以来の友人Nkくんと54年ぶりに会う機会がありました。彼が後期試験を受けるために投宿していた品川のホテルへ、すでに試験の終わった私が岡山へ帰る前に訪ねて以来です。たぶん、54年にあと3日くらいではなかったかと、記憶をたどっています。同じ同窓のNgくんが労をとって引き合わせてくれました。

 

 すっかり面貌が変わっていて、若いころの滲み出るようなエネルギーは影を潜めていました。すっかり好々爺という風貌です。これでは街で逢っても、分かりません。彼からみての私も、同じように見えるのかなと思い、離れた年月の時間と、触れ合うことのなかった「かんけい」の欠落を感じていました。品の良い振舞いと穏やかな話しぶりは、生来の育ちの良さも手伝って、彼が静かな人生を送ってきたことを証しているようです。

 

 私の育った岡山県の南部に位置する町は、造船所と金属鉱業とを主軸としている、海沿いの漁村でした。私はこの街で、造船業における職階の階層性が(子どもながらの)暮らしの中に沁み出してくるのを、ひたひたと感じ続けていました。現場の職工と東京から3年間ばかりやってくるテクノクラートや経営の中枢を担う人たちとの階級的な差異は、社宅のある居住区域が違うことを含めて、はっきりと生活に滲み出ていました。

 

 Nkくんは父親の転勤で東京からやってきたひとりでした。戦前には、軍艦の建造などもあって海軍の将校が逗留していたせいで「海軍社宅」と呼ばれていた、粋な黒塀見越しの松を備えた邸宅があり、そこに住んでいました。造船所の道路を隔てた山側の高台地に3軒だけ木々に囲まれて置かれているお家です。招待されて私がNkくんの家を訪問すると知ったとき、母が身だしなみを整えなさせようと慌てていたのを思い出します。階級的な違いという文化を知る機会であったわけです。Nkくんは、ムキになって勉強する気配を微塵も見せず、軽々と学業をこなしていたのだろうと思います。彼が東大を受験し難なく合格したときにも、少しも違和感を感じませんでした。なるべくしてそうなったと、思わせる文化的な雰囲気を、彼の立ち居振る舞いが備えていたのです。ですから彼とは五分につきあう社会的位置にいないと、私は内心どこかで思っていたように思います。だから、卒業後は連絡も取らず、音沙汰なく暮らしてきたのです。

 

 その当時すでに、東大生を送り出す家庭の年収が100万円という数字が(大学生協の調査に)ありました。その数年前にフランク永井が「13800円」と謳っていたのが大卒の初任給だったわけですから、Nk君の家などは、いわば産業社会前期日本の「中産階級」と呼んでいいと思います。21世紀になるころになって刈谷剛彦という教育社会学者が「文化資産」ということばを使いました。つまり親から子へ受け継がれる出立点での格差は、単に収入によってはかられるものばかりでなく、言葉や生活環境、文化という資産があり、それを視野に入れないで「平等」ということを主張しても、空文句に終わるというものでした。その実感を、私はNkくんの登場によって知らされたのでした。

 

 と同時に、いまふと思い出したのだが、やはり1960年代の初めころに読んだ本の中に、8・15の終戦の詔勅が放送されると決まったとき、軽井沢の別荘にいた実業家たちが乾杯して寿いだという記録がありました。それを読んだとき、中産階級の(思考の)自由さを思って敬服した覚えがあります。才能も含めてNk君が受け継いでいた「文化資産」を、そのときから54年を経て眼のあたりにしているような気がしました。

 

 さて54年。ずいぶん私の暮らしも良くなったのだと感じます。中産階級ではなく、ひところ流行りの「中流」の「下」というところでしょう。ですが、さしてお金を使わない暮らしには慣れています。なくては困るがそれほどお金に追われているわけではない地平からみていると、衣食足って礼節を知るという程度の「文化資産」を大方の人がもってきているかなと、感じます。少しは品位が備わってきているかしらと、気にしてみた次第です。