mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私の裏庭という謎

2015-03-31 06:59:55 | 日記

 時間が通り過ぎるものと思わなくなったのは、いつごろからであろうか。時間は、間違いなく堆積する。思えば、生命体の37億年の歴史もまた、我が身に確実に堆積して、いまここにある。単細胞から分裂を始めて、魚類、両生類を経て哺乳類のかたちになってからさらに、人のメスからオスに分岐・変身していく過程も通り過ぎて初めて、おぎゃあと誕生してきた。その間に、人の文化もまた、着実に継承されている。しかもそのほとんどを、私たちは無意識の世界として我が身の裡に抱え込んで、ある時気づけば、「自分」なるものの意識にさいなまれ、その保護的な親に対して歯向かい、修羅場を経て自立してゆく。なんとも悲痛にして凄惨なその過程が、歳をとって振り返ると、まったく我が身の内部に培われた「思い」のもたらすことだと得心の行くことがわかる。その「思い」は、これまた、時間の堆積がもたらしたものだと、みてとれる。

 

 いま読み終わった、梨木香歩『裏庭』(新潮文庫、2001年)は、その無意識の世界を解きほぐし、堆積した時間が意識されることによって、人が自律してゆく過程をつぶさに描きとった作品である。そういう意味では、人の魂の成長成熟物語である。成長の途次に出会う(あるいは出逢わない)様々な要素を描きこんで、余剰欠落があるように思えない。しかも梨木は、アンビバレンツをそのままに受け入れる。きれいごとで片づけない。外部の嫌なにおいや毛嫌いしたいものの形状が変わってくる契機を、受け止める当人の感覚や意識に置く。つまり、私自身の内面を描き出すことが、己の輪郭を自ら抉り出すことであり、それはすなわち、外部にあると思っていた世界を描きとることである。それは善し悪しを超えた価値観を持って受け止めるしかないと、己を、つまり世界を見切る。その地点で、(己の意識からすると)保護的であった(あるいは保護してもらえなかった)親との関係が、きっぱりと見て取れる。それは寂しくもあり清々しくもある親との関係の自己意識、つまり自律である。そのようにして、一人の人間になる。

 

 この本の原本が出版されたのは、1997年。もう18年も前になる。読み終わって気づいたのだが、2001年に出版された文庫本の「解説」を河合隼雄が書いている。河合が書くというところに、それに値するほどのもの、ということが象徴されている。ファンタジーを作成するというのは、作者の内面を探って肖像画を描くような行為に近いのであろう。逆に言うと、どのように世界をみているかが鮮明に表れる。と同時に、読む者の心裡が読み取り方に現れる。つまり作品というのは、作者と読者の協同制作品であるが、読み取られるまでは、従って、未完のままにある。また読み取られたからといって、作者の意図に沿うものになるかどうかは、まったくわからない。でも、読み取る人の状態において、読み取れるように読み取られていくものだと言える。

 

 主人公の内面を裏庭だとすれば、「表庭」は何であろうかということにも、この作品は触れている。母と娘と孫娘の三世代の受け継いでいるコトが、ひとつながりになって孫娘によって明らかにされていくという「かんけい」は、リアリティの保障装置としてこの作品に組み込まれている。そこが、私のかかわる現実の、母と息子の関係や母と娘の関係に重なって、深く考えさせる仕立てになるのだが、その思索の窓は、閉じることなく開いているように設定されている。「裏庭と呼ぶな」と厳しく言い立てていた庭番が、最後に「庭」と呼ぶことに、やっと共感者を得た喜びを隠さないかたちで、描きこまれている。

 

 ふと思うのだが、「黒子のバスケ」事件の被告に、香山リカがもしこの本をすすめていたら、どうだったろう。そう思わないではいられない。