mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

知性を感じさせる感懐とは

2015-03-10 11:41:49 | 日記

 雑誌『現代思想』2月号(青土社)の特集「反知性主義と向き合う」というタイトルにひかれて、看板の「討議 信田さよ子+白井聡 反知性主義の時代」から読みはじめた。そしていきなり、しょっぱなでつまづいてしまった。

 

 冒頭、信田さよ子が白井聰の著書を読んで気に入ったと表明しているのだが、こうつづく。


 
《……番組は特定秘密保護法案が国会を通った翌日の収録だったらしいのですが、(白井が)「そのことを取り上げずに何が『日本のジレンマ』か」とおっしゃった。その通りだと思いました。私たち団塊の世代からすると、一回転してまた戻ってきた正統派左翼――「左翼」と言ってよいかわからないですけど――だな、これで安心して死ねるな、というような感じだったわけです(笑)。》

 この「討議」は朝日カルチャーセンターの教室で行われたらしいから、お仲間が集まっていると思いこんで、こうした埒もない言い方をしているのかもしれない。だが、これが「反知性主義と向き合う」姿勢かよ、と思った。後半の部分だ。自分が「正統派左翼」が好きだと表明している。それだけではない。ここの聴衆は「左翼」であると前提にしている。さらに(その「討議」が掲載されていることから)言えば、この『現代思想』の読者は「左翼」であるとみなしている。そうなのか? 信田さよ子という方が、どんな方だか私は知らないから一概に言えないが、たとえば共産党メンバーだとか新左翼の活動家だと公然化していると、いうのであれば、このような物言いも(笑)って済ませることができよう。もしそうでないなら、これを読む人に対して、ずいぶん失礼なものの言い方ではないか。つまり、安倍首相と同じで、(意を同じうする)お仲間内でおしゃべりしているようなことを、まき散らすんじゃないよと、モンクを言いたくなる。

 

 信田さよ子という方は、その場における自分の感懐を述べることが「討議」だと思っているのかもしれない。私は、そんなことを期待してこの「討議」を読もうとしたわけではない。そもそもこの方々を知らない。だが、「反知性主義に向き合う」ときに、どのように向き合っているかを知りたいと思った。まして「反知性主義の時代」を読み解くような看板を掲げた「討議」であれば、いまがどういう時代なのかを腑分けして見せねばなるまい。そのあとの「討議」を読む限り、白井聡はよくその期待に応えようと踏み込んでいる。だから読み通せたのだが、信田さよ子は、自分のしゃべりたいことしかしゃべっていない。

 

 もし自分が「正統派左翼が好きだ」というのであれば、「正統派左翼」が「反知性主義」とどういう位置関係にあると信田は考えており、その中で自分はなぜ「正統派左翼」に肩入れするのかを、時代に絡ませて説かねばなるまい。つまり聴衆には、左翼とは限らず右翼がいても中道がいても、双方向から聞き取ることができるようなステージ設定をするものではないか。あるいは右翼とか左翼という分け方に気持ちを預けることができない(私のような)者がいても、〈なるほど、そういう考え方をするものなのか〉と、信田さよ子の考え方を媒介にして、自分の考え方を先へ進めることができるような話しをするべきではないだろうか。

 

 講演会とか対談という場面に参加する人々は(雑誌を手に取って読む人も同様に)、まず話を聞いてみようとしている人たちである。まして、自分が主宰しているのでもなければ、基本的に聞いておくのが礼儀と考える。それが日本の聴衆の一般的な態度であろう。それを(勝手に意を同じうする)仲間内とみなして楽屋落ちのような話で進めるのは、無礼千万。学校ならすぐさま学生たちからそっぽを向かれるであろう。

 

 耳を傾ける人たちの考えているであろうことと交錯するように話を繰り出していくのが、対談や討議のパネラーの役割である。「あなた」の感懐を(皆さんは)聴きたいのではない。「あなた」がなぜそのような感懐をもつに至ったかという思考や体験や感覚の流路を読み取りたいのだ。そう思えば、もう少し自分を対象化して、「世界」に位置づけて話を繰り出す必要があろう。発言が知的かどうかは、そういう自己対象化が組み込まれ、自分と価値観も感性も違う人たちとの「違い」を組み込んだ発言にこそ感じられると、思う。