mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

諸行無常を淡々と見つめる視線

2015-03-19 14:22:55 | 日記

 梨木香歩『海うそ』(岩波書店、2014年)を読む。昭和の初めのころ、九州南部に隣接する島に人文地理学者が調査に訪れた記録という風情であるが、文化人類学的な視点から調査渉猟し採取していることがらと採取者の心象との入れ子的な交感が見事に感じられる。山歩きをしている私にとって、そうか、こんなふうに目を留めながら景物を我が心裡に組み込んでいく歩き方をしたら、何層倍も娯しみが増す。いや、愉しみというよりも、山歩きが自分の輪郭をたどって世界から分節化するような行為そのものになる。そうなると、山歩きが私の人生そのものになる。そう思われた。

 

 しかし、この作品のテーマは、もうひとつ別のところに置かれている。この地理学者が調査渉猟した昭和初年代のころの、この島嶼に残る景物に掻き起された心裡の関心が、島嶼に見るモノ・コトに刻み込まれている先人の魂に対する共感性の高さ、それは同時に、自分の身体に刻まれ堆積している類的輪郭の発見になる。だが半世紀経って、開発が進み、無残にそれらが破壊されている光景との大きな落差という世代的な変化による衝撃をどう受け止めるか。そのとき、半世紀前の発見をまとめることのなかった自分を、さらに再発見し、時の流れを諸行無常の、もうひとつ大きな視野においてみつめる。全体の分量で言えば、末尾のほんのわずかの描写で、モノ・コトを受け継いでいくことの困難さと、変容していくことの必然とを、淡々と見つめる著者の視点が描き出される。

 

 その淡々とした視点が、母親の一周忌祈念誌を構想している私の心もちのありように近接してくる。調査渉猟したのは昭和の初めというから、私の母が20歳に近いころだ。もちろん、仮想の九州南部の島嶼においてではあるが、そこに描出される景物は人類史の初めのころから歩んできた生活史である。それと同じように、私もまた、江戸の景観を残した生活の様子を子どものころに体験してきている。それを懐かしむというだけでは、我が身のたどった後半生を見落とすことになる。かといって、現在だけを称揚していてもまた、累々たる人類史的堆積を分節化しないままに、独善に陥ってしまう。

 

 海うそというのは、蜃気楼、海の幻のことである。実体がないことに突き動かされて、なぜそうしたものが行われたのかもわからない構築物が残されていく、そこに人生の関係的な所為が横たわる。言葉にすると的から外れてしまうが、そこにこそある種の真理性を感じとる感性に、魂が揺さぶられるとき、私たちは過去や未来とともに現在を生きている地点に立つ。そんなことを、この作品は提示して見せていると思った。

 

 久々に面白い小説に出逢った。作者は1959年生まれ。いま50歳代の半ばの人である。人文地理学がこのような文化人類学的視点を組み込んで展開していたとは、思いもよらなかった。まだまだ知らない世界が、向こうの方にはあるのだね。