北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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十一人の英雄達

2015-02-15 20:57:15 | 函館
函館西部地区の、ペリー提督の銅像が建っていることは、以前にもご紹介したけれど、その側には、このような物も建てられている。





2月28日まで展示されているという、函館(箱舘)に縁の深い、十一人の人物達のパネル。
一人一人ご紹介しましょう。








最初は、これまでも何度か触れてきた、五稜郭を設計し、「諸術調所」という学問所を設置した、武田斐三郎。





この人物は、1855年、日米和親条約による、補給港として開港が控えた箱舘において奉行に任命された、竹内下野守保徳。
開港に際し、箱舘の防備が不十分であることを悟っていて、後に、彼の後任の奉行となる、村垣範正と堀利煕が、現在の五稜郭に当たる地への奉行所の移転と、防備のための台場の整備を幕府に上申したとされている。





改めて説明不要のペリー提督。
日本史の授業では、黒船が来港した浦賀にばかり重きが置かれていたけれど、箱舘にもこうして深い縁があったというのは驚きでした。





幕末の箱館駐在英国領事宮であった、リチャード・ユースデン。
「公園とは病人に病院が必要なのと同様に、健康な人にも養生所が必要である」という主義のもと、函館市内における公園の必要性を主張し、1879年11月3日に、函館を代表する公園の一つである、函館公園の開園にも尽力した。
またその際、記念にユースデン夫人は、公園に西洋クルミの木を植えたとされている。





イギリスの動物学者、トーマス・ライト・ブラキストン。
日本の野鳥を研究し、津軽海峡に、動植物分布の境界線があるとみて、「ブラキストン線」を提唱したことで知られている。





同志社英学校(現同志社大学)の創立者として知られる新島襄。
元々は宗教家で、1864年、アメリカへ渡航することを画策する中で箱舘に上陸し、ハリストス正教会の司祭であったニコライに日本語を教えたりする中、ニコライをはじめとする数名の協力により、アメリカへの密航に成功。帰国後に同志社英学校を創立している。





イギリス人宣教師にしてアイヌの研究家で、「アイヌの父」と呼ばれた、ジョン・バチェラー。
香港で学んでいた時に体調を崩し、1877年に、静養のために函館に来航。函館で伝道する中で、アイヌ民族の存在を知り、アイヌ民俗への伝道を志したとされている。





こちらは、言わずと知れた新撰組副長、土方歳三。
現在の函館市若松町にある「土方歳三最後の地碑」は、今では観光名所として広く知られています。





1868年に戊辰戦争が勃発した際、海軍副総であった裁榎本武揚らと行動を共にして参戦し、箱館政権(蝦夷共和国)下において箱館奉行並を勤めた、中島三郎助。
新政府軍に対して徹底抗戦を主張するも、本陣五稜郭降伏2日前の1869年5月16日、長男恒太郎・次男英次郎・腹心の柴田伸助と共に戦死したとされている。





アメリカ人宣教師のメリマン・コルバート・ハリス。
1873年に夫人とともに来日し、翌1874年に函館へ移って、キリスト教の布教を行ったほか、アメリカ合衆国領事も兼ねた。





幕末~明治期の医師であった高松凌雲。
箱館戦争において、榎本武揚の依頼で箱館病院を開院して院長に就任し、戦傷者を、敵味方を問わず治療したことで知られている。
このことは日本で初めての赤十字の活動であったとされている。
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