自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆目に留まった言葉

2014年01月09日 | ⇒ドキュメント回廊
 過日のコラムで、金沢市の東山界隈を元旦に歩いた様子を記した。茶屋街で知れた東山だが、寺院も点在している。その日、ある寺院の門前に貼りだされていた言葉がふと目に留まった。「信はなくて まぎれまわると 日に日に地獄がちかくなる」と=写真=。「蓮如上人」とあるので、室町時代に浄土真宗を全国に広めたとされる高僧のありがたい言葉だ。

 念仏を唱えたことすらない身なので、言葉の仏教的な意味合いは測りかねる。それでも目に留まったのは、勝手にいろいろと解釈し、現代的な意味合いが浮かんだからだった。こう解釈してみた。「自分の生き様の信念も持たず、情報化時代の中で右往左往していると、ろくな死に方もできない」と。「アラ還」の同年代を見渡しても、日常の中で、趣味を大切にして生きている友人たちや家族思いの心優しい友人たちは多くいる。ただ、世の矛盾と闘っている、あるいはチャリティ(慈善活動)に身を投じている、といった信念というものを感じる人はめったにお目にかかったことがない。もちろん自分のその一人だ。

 情報があふれ、「アベノミクスで株価がどうだ」「2020年 東京オリンピックだ」「2015年春 北陸新幹線開業だ」「靖国参拝で中国、韓国がどうだ」などといったニュースに目と心を奪われている日々ではないか。

 自宅に戻ってインターネットで「信はなくて まぎれまわると 日に日に地獄がちかくなる」を検索してみた。出展は『蓮如上人御一代記聞書讃解』とあり、この言葉に続きがあった。「信はなくて紛れまはると日に日に地獄がちかくなる、紛れまはるがあらはれば地獄がちかくなるなり。うち見は、信不信見えず候。遠くいのちをもたずして今日ばかりと思へ、と古き志の人申され候」

 ホームページの出展は省くが、以下の現代意訳が丁寧に付いていた。「真実の信心が得られないまま、世間の事に紛れ果てていると、日に日に地獄が近付いて来る。紛れ果てている証拠に、地獄そのものの生活が展開してしまうものである。外からは人の信・不信は見えないものである。しかしその当人にははっきりと自己の信・不信は明らかだと思われる。命というものが長々と続くものとは考えずに、今日只今だけの命と思って聞法に励むべしと先師はおっしゃっておられるが、まことにその通りではなかろうか」と。

 さらに私の勝手解釈が続く。「自分の生き様の信念も持たず、情報化時代の中で右往左往していると、ろくな死に方もできない。こうした情報過多の日常に埋没していると、自身に死が近づいていることすら分からなくなってしまう。自らの生き様を見極めることができるのは、決して他人ではなく、自分自身ではないか。人生は長くない、日々にいかに生きるか、目を凝らせ、考えよ、自らの信念を探せ」と。

⇒9日(木)朝・金沢の天気    はれ

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