自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆沖縄の風~上~

2010年05月01日 | ⇒トピック往来

 大型連休を利用して、沖縄に来ている。きょう1日に小松空港から羽田空港、羽田から那覇空港へと乗り継いだ。小松から羽田は若干の空席も感じられたが、羽田から那覇はほぼ満席だった。羽田からの便の中で、大陸からの偏西風が強く、それに向かって飛ぶので、少々揺れが予想され、到着時間も15分から20分ほど遅れるとのアナウンスがあった。揺れはさほど感じられなかったが、アナウンス通り20分遅れで那覇についた。気温25度、夏日だった。

             海のサファリパ-ク

  空港では恩納村のホテルまで送ってくれるタクシーを手配してあったで、空港では迎えが待っていた。せっかくだからと思い、高速道路「沖縄自動車道」を走ってもらい、オプションで名護市の「パイナップルパーク」と「ブセナ海中公園」に立ち寄ってもらった。現地までは60分ほどの時間があったので、タクシーの運転手と話が弾んだ。54歳だという運転手は子どもが4人、孫がすでに7人いる。「沖縄には大きな企業がなくて、息子のうち2人は本土(東京と山口)で会社員をしている」「企業といえば、オリオンビールぐらいかね」と。高速道路から見える家並のほとんどが2階建て、あるいは3階建てのコンクリート造り。守り神として有名なシーサーが乗る赤い瓦の屋根は少ない。「沖縄は台風が強くてね、かつて私の家は茅葺屋根だったんだけれども、吹き飛ばされることもあって、台風のたびに親戚の家に避難したものでしたよ。いまは瓦屋根の家でさえ、立て替えてコンクートの家にするのが当たり前ですよ」

  「屋根がコンクリートになった理由がもう一つある」という。「よく見てください」といわれ目を凝らすと、各家々の屋根には必ずステンレスのドラム缶が乗っている。高さは2㍍ほどもあるだろうか。「貯水タンクなんですよ」。沖縄の泣き所は台風と並んで水不足だという。「沖縄は島だから、本土のように隣県から水道水を簡単に融通してもらうということはできないですよ。そうそう、昭和38年(1962)ごろだったか、鹿児島などから船で水が送られてきたこともありましたよ」。沖縄本土復帰(1972)以降、水の安定供給のためダム建設が集中的に進められ、沖縄本島だけでも9つのダムがある(「内閣府沖縄総合事務局」ホームページより)。

  そんな話を聞きいているうちに、パイナップルパークに到着した。人でごった返していた。大型観光バスのほか乗用車が駐車場にびっしりと並んでいる。くだんの運転手が「ほどんどが本土の観光客ですよ」という。「沖縄わ」ナンバーはレンタカーなので判別できるのだという。よく見ると、「沖縄Y」というものある。「Y」は駐留アメリカ軍の関係者のナンバーという。パイナップル園を電気自動車で周遊した。前の車には米兵とおぼしき体格のよい若者が女性とペアで乗っていた。タトゥー(刺青)がびっしりと描かれた左腕を車体から出して、手振りが忙しそうだった。会話が弾んでいたのだろう。

  ブセナ海中公園の入り口で「海中展望塔」のチケット(1000円)を求めると、窓口の女性が「階段が50段ほどありますが、大丈夫ですか」と聞いきてきた。展望塔というとタワーをイメ-ジするが、海中の場合は逆で、海中に降りていくことになる。らせん状の階段を50段降りると深さ5㍍の海底に達する。円形の窓があり、海中を眺めることができる。透明度が高く、魚群や海藻の見渡しもいい。時折、ヌッと色鮮やかな魚体が目の前に現れる。こちらをキッとにらむ凄みのある魚たちだ。飼いならされた水族館の魚とはどこか違う「野生の魚」だ。海原の様子は、さしずめ「海のサファリパーク」とでも言おうか。(※写真の魚は「オヤビッチャ」。岩礁やサンゴ礁に普通にみられる。日本海では少ない。スズメダイの仲間。沖縄では食用に=「東海大学海洋科学博物館」ホームページを参照)

⇒1日(土)夜・沖縄県恩納村の天気  はれ

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