能登の悩み、それは後継者がいないという現実である。昨年5月、当時の小泉純一郎首相が能登の輪島・千枚田を訪れ、「絶景だ」とほめちぎった。現実を言うと、小泉首相が眺めた棚田は4haにすぎない。その背後にある10haもの棚田は休耕あるいは耕作放棄田なのである。
現代版「天保の飢饉」
能登半島はキリコ祭りで有名だ。秋田の竿灯(かんとう)、青森の「ねぶた」と並び称される。キリコは担ぐものだが、写真のようにキリコに車輪をつけて若い衆が押している。かつて、集落には若者が大勢いた。しかし、人口減少と担い手不足で地域コミュニティーで運営されるキリコ祭りが成立しなくっている現実がある。車を付けてでもキリコを出せる集落はまだいい方だ。そのキリコすら出せなくなっている集落が多くなっている。
かつて人口が急激に減少した時代があった。日本史でも有名な「天保の飢饉」である。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。そのとき、「この集落はもはやこれまで」と一村一墓(いっそんいちぼ)、つまり集落の墓をすべて一つにまとめ、最後の一人が墓参すればよいとしたのである。集落の終(しま)いを意識した選択だった。その一村一墓の集落がいまでも石川県珠洲市三崎町にある。結果的に、その集落は絶滅しなかったが、その一村一墓の風習だけが今でも残っている。が、21世紀に入って、現実として一村一暮の制が必要になるかもしれない。天保の飢饉を生き延びた村人の子孫たちがいま都会に出て、帰って来ないのである。
これは能登だけの現象ではない。全国がそうなのだ。先祖が心血を注いで開墾した田畑が数年で野生化する。墓地すら判別不能に荒れている集落がある。その子孫は都会に出て、何をしているのだろうか。子供に「私達の祖先はどこで何をしていたの」と聞かれて、その荒れた祖先の地を案内できるのだろうか。そんなことを想像すると哀しくなってくる。
地方にこそ人材が必要だと思う。にもかかわらず、人材を東京に一極集中させ、それで日本が成り立っているという構図だ。その構図が能登の祭りからよく見えるのである。石川県の推定によると、現在の奥能登の4市町の人口は8万1千人、それが7年後の2015年には6万5千人と20%減となる。人の胃袋、口、目が2割も減る。
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