参加する人が増えれば、その中の一人ひとりの役割は、相対的には、減ずることになる。分母が小さいときは、一人ひとりの役割は、大きく無視することはできない。影響力も強い。
そして、分母の大きい世界で住むことは、個人の力の小ささを思い知らされることとなり、その役割は、本人にとっても不本意なものとなりかねない。重要視されない。とりわけ、有名でなかったり、特殊な事情、能力がない人は、特に。
そこへくると、狭い世界では、一人ひとりの役割は大きく、また、その力は、頼りにされて、本人の生きがいにもつながる。現実に、生きている喜び、辛さも強いものがある。
そこで、憲法9条を考える。戦争ができる国にしたい、という動きは根深くある。歴史は、弱肉強食の連続であり、人間という生き物は、まことに、残酷であり、信じられないほど、残虐の行為もする。こんなものに、信頼など置けないと考えるのは、あたり前のことだともいえる。
ところで、それを貫徹するなら、いつまでも戦争は避けられないことになる。モメゴトの最終決着は、戦争しかない、ということだ。それでは、あまりに知恵がないではないか。というのが、小生の夢の話である。
殺すなら、殺してくれ。私は、殺さない。そして、そんなことをしても、あなたの明日は、あまり良いとはいえないのじゃないですか、お互い、兵士となって、分母の大きい世界に組み込まれて、粗末に命を取り扱われるような、そんな仕組みに乗る必要がどこにあるのか、といいたいのである。
世界をそうしない限りは、キリストであろとモハメッドであろうと、仏陀であろうと、何を信仰しようとも、戦争し続けて、最後は、共に滅びるしかない。そうなる前に、何をするのか、という話である。
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