人為事故であれば、なぜそんな事故が起きたのか、まずは、原因をはっきりさせなければならない。人間が作り、人間が動かしてきたものである。事故が起きれば、その原因は必ず、明らかにされなければならない。
その意味で、福知山線の事故が、その事故原因が、徹底的に明らかにされたのだろうか。原因をはっきりさせない限り、事故はまた起こるし、同じ過ちをおかすことになる。
安全第一のために、なにをなすべきか。点検の手法もあるだろう。異常に対する正確な対処がなされたかどうかもあるだろう。
福知山線の事故は、若い運転手が、考えられないぐらい早いスピードで、事故現場のカーブに突っ込んでいったことにある。
では、なぜそんなスピードを出したのか。その前段階で予定時間に遅れが生じていたから、それを取り返そうとして、スピードをあげたという。
では、なぜ、その遅れを取り戻そうと必死になったのか。遅れは遅れとして、仕方ないと考えることはできなかったのだろうか。
遅れると、どんなことがこの若い運転手に、生ずるのだろうか。とんでもない処罰があるというのだろうか。当時、どんな処罰があったのだろうか。どんな辛さが若い運転手にかかってくることになっていたのだろうか。
その処罰はどのような考えで、どのように企画され、運用されてきたのか。そこには、安全運行との関連でどのように、位置づけられていたのだろうか。
その処罰は、通常考えられる程度のものだったのだろうか。それとも、通常の人には、耐えられるものでなかったのだろうか。要するに合理的で、真っ当な処罰だったのだろうか。
その処罰は、組織として、どのような経過で、どのような検討をされてきたのか、そこに、組織としての非人間的思想とでもいうべき要素はなかったか。人を大事にする考え方に反する価値観ではなかったか。
当事者の若い運転手は、特殊だったのだろうか。誰もが、その状態になれば、同じような状況に陥ることになったのだろうか。
人間は過失から、免れることはできない。何とかして、その過失をフォローする工夫をする。過失をしても、簡単には大事故にならない工夫をする。若い運転手が、どんな思いで、このカーブに突っ込んでいったのか、この話が充分ではない。この話が避けられているように見える。
徹底的に、彼がなぜそうしたのかを、調査、究明しなければならない。あらゆる方面から、一人の人間が、どのように追い込まれていったのか、明らかにしない限り、事故原因が明らかになったとは決して言うことはできない。