空をみながら

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立川志らくさんの嘆きを考える

2019年05月22日 00時05分46秒 | 思考試行

 弟子入りの頃、師匠に対する憧憬のこころは、ホンモノだったのが、出世して二つ目になったら、徐々に、師匠に関心を持たなくなってきた、そこを、志らくさんは、インターネットで嘆いてみせ、弟子たちを前座に戻してしまった、という話は、このところ、俳句番組で特待生になり、志らくさんの人間性をみせてくれていたから、その本人が発信したということで、興味深い。

 およそ、人間というものは、自己評価が高く、他人が考えている評価よりも高いらしい。ということは、出世をすれば、師匠との差が縮まるわけで、当然ながら、前座時代とは尊敬の念の度合いも変わってくるのかもしれない。

 落語の世界がどれほどの努力を必要とするのかは知らないが、たった一人で、多勢の観客を笑わせようというのだから、その芸は、一朝一夕にはできないことは明らかである。そういう技術、芸を伝統として現在まで育ててきているのだから、落語という芸のすばらしさは、人を感動させてやまない魅力があるのはまちがいないし、そのために先達がいかに努力してきたか、の深いいきさつ積み重ねがあるに違いない。

 そこには、たんなる芸というよりも、人間としての悟りというか、人を楽しませ、慰撫する要素があるに違いない。それは、人の人に対する熱い思いがなければ、できないことである。そこには、観客に対する愛があり、信頼があり、一対多であるにもかかわらず、それを乗り越えた赤い線熱いもの、が存在している。

 そんな思いがなくて、なんの芸か。志らくさんの嘆きには、人間の悲しみがある。ある人間がある人間に惚れる、芯から感動する、その気持ちをもっているかどうか、そこに、人を感動させる源泉がある。

 そんな風に人に惚れることの出来る人が、観客に真の愛情を抱きつつ、決してそんな顔をみせずに、むしろ、つっけんどんにしながら、実は、観客の幸せをねがい、辛いこの世を共に生きるなかまとして思っているからこそ、成り立つ芸なのではないか。素人の小生がそんな予想を勝手にしている。

 師匠をないがしろにするような人間は、とうていモノにはならない。そこには、人を愛するという、この本質を知らないことを示している。芸事など何も知らない小生でも、志らくさんの嘆きは理解できる。

 落語にかぎらず、漫才、漫談(最近見ないのが寂しいが。)、芝居、演劇などなど、通底するのは、その心持ちではないだろうか。そこに感動のタネがある、というか、そこにしかないのではないか。心底人間に失望し、絶望している人間には絶対不可能な芸である。だからこそ、失望、絶望している人間を救う力を持つのである。

 ものすごい収入とか、もてるとか、そんな動機だけでは、とてもいい芸人にはなれないと思う。スタートはそれでいいのだが、どんどん変わっていき、本質に近づくものではないだろうか。


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