人間の生涯は、生を受けたとたんに、最後の死を迎えるその日を待つこととなる。これは誰もが平等であり、これを免れる者はいない。
その間、富を得たか、地位をえたか、名声をえたか、何か業績を残したかと、その人間の生涯を分析し、成功だったか失敗だったかと、あれこれ言うこととなる。
たかだか、100年内外の年月であるが、この間、悲喜交々の事件に遭遇することとなる。人生を嘆くのは、必要な金がないために、食料に事欠いたり、病に襲われ、対処できなかったり、思うにまかせない悲劇に襲われたときが、重要である。
それ以外にも、恋や愛や、感情問題もあるが、それはこの際おくこととする。
人類は、経済や疾病問題に対処してさまざまな仕組みを作ってきた。その努力で、人類は生活の範囲を広げ、寿命も伸ばしてきた。
人がお互いをどう見るか、どう助け合うか、さまざまに工夫しながら、過ごしてきている。だが、それは万全ではない。穴があり、落ち込めばいたしかたなくドロップアウトするしかない状況になることもある。
だが、そうならないような仕組みは、現代社会においては最低条件といえるだろう。全世界がそうなっているかどうか、これは明らかにそうはなっていない。
飢餓状態が現存し、これに対応する施策はとても充分ではなく、国連の態勢も充分ではない。世界の富裕層が、独自の組織を作っているかどうかは、知らないが、ありあまる富を手にして、彼らがなんの問題意識をもたないとすれば、これは悲惨である。
かれらこそ、世界に目をむけ、具体的な分配を考えるべきであり、生涯を終える前に、できる限りの努力をしてもらいたいものである。
効率的に、わかるように、分配すれば、人類のかなりの悲劇が解消するのではないかと思われる。人間が生きるために必要な金銭というのは、それほど多くはない。
どこまでで線引きすればいいか、具体的な指針を決めることはできないものか。全人類が安心して生涯を終えることができるような仕組みは必須である。
人類にとって、そんなものは、ない方がいいのだろうか。