国会の論議が無茶苦茶になっている。民意の公平な反映など考えてはいない、いびつな選挙制度で、議席の数だけを問題にする政治の影響である。
多数決で決めるだけなら、議論は必要なく、議論をすれば、不利とみれば、多数派は議論など無用だと考えるだろう。だが、政権が真面目に議論しないならば、有権者たる国民の支持を失うとしたら、多数派といえども、議論をせざるを得ないし、誠実に政権の主張を真面目に訴えるということになる。
ところが、国民はさほど政治に関心はなく、少々論理を外していようと、官僚に対して人事権を武器に、脅しをかけていさえすれば、官僚は政権に協力を惜しまず、それどころか競争して「忖度」すら始める。行政だけではなく司法、検察も例外ではない。
お友達のために便宜をはかり、「功績のあった人を招く」という桜を見る会も、私的な後援会の行事にしてしまって、なんら恥ずることもない。その「言い抜け」は、論理も何もない。あるはずの名簿はない、廃棄した、子供でも言えない恥ずかしい言い訳、みるも無残なものである。だが、それをシレっとやるのである。これを厚顔無恥という。無茶苦茶である。
国民が政治に無関心で、政権側が一見真面目そうにふるまいながら、実は、都合の悪いことは隠しまくり、議論などするつもりはなく、ああいえばこういう式の何か言ってさえすれば、「恰好ばかり」のすれ違いに終始していても、国民が気持ちよく騙されているうちは、なんの問題にもならない。そもそも真面目に答えるつもりはなく、誠実なフリをすればいい。本当に誠実でなくてもいい。
へんな「技」を覚えたものだ。良心的な政治家や専門家などがどういおうと、少数派の「物が見えている人びと」の言うことなど無視するだけである。それでも国民大衆が、無関心であれば、なんの問題にもならない。
果たして、国民はどうするのだろうか。ほぼ半数の国民は、きれいに騙されていて、気持ちよく、「苦しみながら」生きている。国民が、ひとたび気付けばどうなるのだろうか。政権にのさばっている人びとは、不安になることはないのだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます