大學の研究や、論文などでは、専門的に課題を絞らなければ、なかなか力を出せないとして、問題を絞ることになる。なるほど、専門をしぼれば、エネルギーを集中できるし、それが、成功の要因となるとされる。
そのことから、総論ばかりを語っているようでは、課題の具体化は、できないし、何の変哲もない、あたりまえのことを語っているだけだとなってしまう。従って、総論は、評価されないことになる。
ところが、福島の原発事故で、事故調査委員会の報告が新聞にでていたのを見ると、総合的に対処できるところがなく、全体に目を配れていないことが、大きな弱点として指摘されている。
そして、原発が、人間の扱えるシロモノなのかどうなのか、という疑問がでてきている。安全神話のもと、チェック機能がなく、対策がとられていない。生かされない。全体をみることができないという現状。
これは、人間社会において、それぞれの専門の城に閉じこもっているようでは、この種の事故がおきる可能性がある。全体をみることができる人間に、それぞれがなっていないと、問題はまたおこる。
人間にとって、何が大事であるか。総論としての、しっかりしたものの見方、考え方を、しっかりさせることが必須である。何が正義だろうか。何が、人間にとって大事か。人と人との関係はどうあるべきだろうか。どんな心構えで生きていくのか。
人を非難し、叩き、自己中心的に生きることに、何の躊躇も感じないような人間が、大勢いる。とりわけ政治家にそんな連中がいる。財界にいる。官僚の中にいる。まさに、全体をみることのできない連中である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます