本音に対して、建前がある。本音と建前が一致することがないとはいえないが、大抵の場合は、相反するものである。人間社会において、建前を基本にしながら、その底流には、本音が息づいていて、実は、そこが、生きるエネルギーの源泉になっている。
建前は、キレイごとともいえる。少なくとも、社会的に非難されるようなことはない。そこへくると、本音は、まともにそれを出せば、犯罪になるような、反社会的なことが多いのではないだろうか。
だが、この本音が、真の意味で、反社会的ではなく、人類社会のために貢献できるようなものでなければ、社会は、自己崩壊を起こすだろうし、人類社会を継続することも困難なはずである。
この本音が、特定の人達にとっては、自由に表現できるけれども、ある階層以下の人間にとっては、まさに出してはいけないことになっているように見える。
一定の収入、社会的地位、財産の蓄積、そうしたものの力で、本音のままに生きている連中がいる。彼等の本音は、どこにあり、どんな風な本音を持っているのだろうか。これが、相対的に、我慢を強いられている階層の人間の犠牲にし、使い捨てることによって、成立している構造になっているのではないだろうか。
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