政治家の姿勢がどうなのか。国民のことを本当に真剣に考えているか。政治家としての自らの地位を守るために、努力しているだけではないのか。口を開けば国民のために、と言うが、本当だろうか。
マスコミにはさまざまな人が登場している。野党批判をする連中は、支配者側に立っていることを自覚しているはずだ。結構なギャラをもらい、現在の世の中、仕組みに恩義に感じているのだろう。しかし、その立ち位置は、あくまで弱い立場の人間のフリをしている。目くらましの一アイテムであり騙し要員である。
国がどのような姿勢であるべきかは、国際情勢のなかでは重要なことである。とりわけ中国の拡張主義的な傾向をみれば、平和主義などは論外の扱いとなる。相手が攻めてきたらどうするか、といいながら日本は軍隊を整備してきた。自衛戦争なら、当たり前に戦争できるように憲法の解釈も変えてきた。集団的自衛権では、他国と協調して戦争できるまでに、解釈を変更してきた。 もし、あからさまに相手国が攻めてきたなら、直ちに、戦争する構えである。だが戦争は絶対にさけるべきである。その姿勢を貫徹すべきである。
歴史は、強い国が弱い国を利用し搾取し、食いものにしてきた。単に食いものにするだけではない面もあったろうが、それは限定的であり、弱い国は泣き寝入りの他なかった。 だが、そのままでは終わらない。時間をかけながら、不合理な面は徐々に糾されてくる。そのような力学が作動する。
それは、自然に起こるのではなく、不合理な位置におかれている国なり、民族なり、改善を望む人々のエネルギーが作動の起点となるはずである。ただ一筋縄ではいかない。弾圧され、あるいは、内部崩壊を起こすなどして、果てしない悲劇が続くけれども、長い時間がかかろうともあるべき姿になるはずである。でなければ、人間社会は滅びる他ない。強国の姿勢が問われる。
我々は今プロセスのなかにいる。政治家と官僚のあり方が、政治家が官僚の人事権を一手にしたことから、証拠が充分にあっても、検察は動かず、官僚も声をあげられず、裁判官まで政権の顔色を伺うという病的な状態になってしまった。
病的な状態が明らかになっているにも関わらず、当事者達はうろたえる風もなく、堂々としている。これは、彼らをとりまく周辺が病的に彼らを恐れ、あえて鈍感をよそおい続けているからに他ならない。
こんな状況がいつまでも続くとは思えない。指弾される前に、おかしな連中自身が自ら反省するなど期待すべくもないが、恥じを知るなら、この病的な状態を、いかに正常化していくかに腐心するべきだ。見るべき人が見れば君たちのおかしさは、誰の目にも明らかだ。