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世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

もうひとつの暮らし

2014年01月09日 | 国際
昨日のfacebookではお見苦しいところを暴露してしまった。


書かなくてもいいことまで書いてしまうので

こうした惨事に見舞われるのだ。

そして、それが分かっていながらも書かずにいられない自分がいる。



内容はといえば誰しもがある日常なのではないだろうか。

日常の中の見苦しいこと、恥ずかしいことは誰しも知られたくない。


いわゆる自分のプライバシーをわざわざ暴露して何が得なのか。

むしろ損をすることのほうが多い。


自分の品位を落としてまで、書かなくてもいいものを。

あるいは、いい面だけを飾り立てて書けば済むものを。



それでも書かざるを得ないのはなぜか。


それはこのブログのテーマだからだ。


多くの人が、ありきたりののこと、無難なこと、綺麗事を並べ立てる。

それらは何故か心に響かない。


素晴らしいこと、立派んことを書く人ほどボクは蔑(さげす)む。


なぜなら、そんな神様仏様のような人などいないからだ。

みんなドロドロとした世界に住んでいる。


それなのに、それをオブラートに包もうとする。



恋人も、夫婦も裏を返せば醜い世界が潜んでいる。

利害関係が蠢(うごめ)いている。


平穏で穏やかな生活が出来るうちはそれは表面には出ない。

微妙なバランスの上で成り立っている。



それはお互いの信頼関係という側面だ。


真面目に仕事をして生計が成り立つ。

相手を一筋に愛し、尊重し合う。

お互い健やかな生活を営む。




そのバランスが少しでも崩れたとき、人の本性が露呈する。


人は全て、欠点、弱点を持つ。

素晴らしいと思っていた人の醜い麺を見てしまったとき、どう対処するのか。



怒り、蔑み、罵倒するのか

慰め、許し、それすらも愛せるのか。



愛が深ければ怒りや憎しみも深いのだろうか。

山高ければ谷深しだ。


極端な愛はその姿も極端になる。

歪(いびつ)な愛は、その形も歪だ。



だが何故か人はそれに惹かれる。


品行方正、真面目一筋な人間より、

どこか悪(わる)で、ひ弱で、救いようがない人の方に魅力を感じるのはなぜだろうか。


弱さを見せ付けられたとき、心がなびくのはなぜだろうか。


同情は愛ではないかもしれないが、

同情が愛に変わることはよくあることだ。



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ボクには家庭はないが家族がいる。

日本だけでなく、ここベトナムにはそう思わせる何かがある。




特に親子、兄弟愛についてはどこよりも強いのではないかと思ってしまう。


夫婦の姿はどの国もさほど違いはないように感じる。

男は破り、女は守る。


それが逆転している国もある。

今の日本がそうかもしれない。




昨日は、愛の醜さと同時に奥深さを感じた日であった。


これでもかという罵声のあとに静けさがやってきて、

女は男を許す。


男はその時が来るのをじっと耐えて待つ。


そして再び愛し合う時、

その愛はひとつ成長し、さらなる深まりを見せる。


もしも破局するとするならば、

それは本当の愛ではなかったのだろう。



この6年の歳月は、伊達ではない。


女を愛し、ベトナムを好きになったのは、

一時の迷いというにはあまりに深すぎる。



それにしてもあまりに濃く、それでいて酷であるこの国。

ボクはどこまで行くのだろうか。



ただ一つ言えることがある。


それでもボクはこの国だけには留まらない、と。


浮草のような人生に、ひとところに根を張ることは許されないのだ。


男は捨て、女は引き止める。

男は離れ、女は残る。


日本は逆になっていいるが、

ここには古き良き昭和が残っている。