世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

心療クリニック

2012年06月30日 | 人間関係
「抱いてください」とお見えになった方のお話を以前しました。

http://blog.goo.ne.jp/dreamincountry/e/c593e45b5ac841592c6cc061d3724655
(抱っこの効用)



別の女性で

ほとんど毎日のように見えて、

その都度泣いておられる方がいた。



ある時を境にプッツリと音信が途絶えた。



それから約半年、

ヒョッコリその女性がまた訪ねてきた。



如何しているのかこの数日気になっていたところだった。


想いはテレパシーのように相手に届く



怪しそうに聞こえるだろうが、

これは真実だ、とボクは思っている。



いわゆる、セレンディピティ(Serendipity) だ。




まるで心療クリニックの様を呈している。


彼女は、


「ここへ来ると落ち着くんです。

話をきいてもらえるから」


と言ってまた涙を流した。




こういう人に共通するのは

自虐的な人が多いということだ。

masochism [mǽskìzm]; self-torture

自分で自分を責めまくる。



そして他人の目を異常に気にする。

そしてまた、ダメな自分を責める。



「また来ていいですか?」

そういって彼女は帰っていった。








40歳になる男性の世話を

その母親から依頼されている。



彼もここへ来ては

思いの丈を話して帰る。



ただ、ボクの前では素直さを演出する。


外面がいい分

家へ帰ると豹変するらしい。



もう彼との付き合いも

7~8年になろうか。



少しずつだが

彼も軌道修正しているように見える。




上記の女性と共通するのは、

親との確執だ。



むしろ親がしっかりしていて

子離れができていない。



それに対する反発が強い。


それでいて、親の庇護から抜け出せないでいる。

自己矛盾に陥っている。




いずれにせよ

こうした人たちの気が少しでも晴れるのなら


努力を厭わない。





多くの方は

夢を語り、

積極的、精力的かつ活動的だ。



老若男女集い合い

喜々こもごも語り合う。



ここは

時にここはサロンになり、

クリニックにもなる。



かくして

ボクも時に応じ


怪しいドクターになり




滑稽な聖職者に変貌する。



もしそれで

少しでも救われる人がいるのなら


イイではないか。



何と言われようと。


気にしだしたらきりがない。

ボク自身が鬱の境をさ迷っているのだし。


死の恐怖に慄(おのの)いているのだから。






図太く、

しぶとく、

強かに、しなやか
でいなければ


とてもこの世では生きてはいけない。




君は君のままでいいんだよ

You can be who you are.

https://www.youtube.com/watch?v=WnqO0Y5e84U&feature=player_embedded


<object style="height: 390px; width: 640px"><param name="movie" value="https://www.youtube.com/v/Ap1guHYZKD0?version=3&feature=player_embedded"><param name="allowFullScreen" value="true"><param name="allowScriptAccess" value="always"><embed src="https://www.youtube.com/v/Ap1guHYZKD0?version=3&feature=player_embedded" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" allowScriptAccess="always" width="640" height="360"></object>


【警告】

自信喪失国家


一億総鬱状態




悩みを持たない者はいない。


生きている証だから。


みんな苦しみを背負いながら生きている。




特に

華やかな世界ほど、

落ち込みも激しい。



強い陽射しの下には

濃い影ができるように。




イエローキャブの帯刀社長のご冥福を祈る。






遊んで暮らす

2012年06月29日 | 人生
ほとんどの方が


出来ることなら

遊んで暮らしたいと思っているのではないだろうか。



ボクも例外ではない。




だが


不労所得や親の財産で


本当に遊びまくっている人は

放蕩の果てにいずれ食いつぶしてしまうのが落ちだろう。





遊び(方)は人によって違う。



遊びは一般的に消費であり

本来それ自体に生産性はない。


ストレス解消という効用はあるが。



つまり

お金は産まない。



だから

逆説的に遊んでお金になればそれに越したことはないはずだ。




遊びをビジネスにすればそれができる。



当然のことだが

遊びだから楽かといえば

必ずしもそうではない。




むしろ

遊びを極めるには

しんどいことの方が多いのではなかろうか。




遊びにはマニュアルがない。


オリジナル性が高い。


人任せにできない。


遊びは自分自身が主役なのだから主体性が伴う。



遊びとゲームは微妙に共通する。


だから一様のルールはある。



遊びといえど

他人に迷惑をかけたり、傷つけたりしてはいけない。



遊ぶことで

世の中のお役にたてればなおさら良い。



そう、

お役にたてば


報酬が生まれるかもしれない。



相手に喜んでもらえれば

お金をいただけるかもしれない。



ここに遊びがビジネスと繋がる糸口があるの。



単純な理論だが

実践はなかなか難しい。




だが

それを見出し、

実行したものだけが



遊びながら暮らしていけるのだろう。



案外

好きで得意なものをビジネスに結び付ければ


上手くいくことが多い。



とはいえ

お金を稼ぐとなると

そんなに生易しいものではない。



遊びをビジネスに繋げるには

時には命を懸けて遊ぶ必要もある。




好きなことも

得意なことのさしあたり見当たらない人も多い。




だからやっぱり

コツコツ働くしか何のだろうか。



しかし

遊びをビジネスにすることを

諦めず追求することは



それ自体が遊び化することだってある。



やっぱり

遊びは良いものだ。



少なくとも


遊び心だけは失いたくない。



かのマザーテレサさんもおっしゃった。


人生は遊びだ。

だから



遊び抜け。


だったっけ?




ちょっと違うようだけど

これも遊び心。

苦悩と孤独

2012年06月28日 | 苦境
この世で最も孤独なものは

父親と経営者である。



ボクはその両方を背負う。




経営者なら分かるだろう。


経営者は皆、苦悩と孤独を抱えていることを。





もしそう感じないのなら

まだ真の経営者になっていない証拠だ。




アイデアは

苦悩の中から生まれる。




苦悩せずして生まれたアイデアなんて

クソ喰らえだ。




孤独を知らずして

人の気持ちなんかわからない。




苦悩を味わわずして

画期的なアイデアは浮かばない。





人の気持ち

とりわけ悲哀と苦痛。



自ら死ぬほど経験しなければ

心から人を理解することなど不可能だ。




重病を患った医者、

鬱から抜け出したカウンセラー、


死の淵を彷徨った聖職者でなければ



同じ悩みを抱えた患者を救うことなど出来やしない。





人の心を打つ言葉は口から出すものではない。


心から発するものだ。




心から出る言葉は

脳では作られない。



いくら本を読んでも泳げるようにはならない。



溺れかけた時、

必死にもがいてやっと泳げるようになる。




一度も転ばず歩けるようになった赤ん坊はいない。


一度も倒れず自転車に乗れるようになった者はいない。




痛みを知らなければ

人の気持ちは分からない。






だから

オヤジと経営者は



常に苦悩と孤独を引きずっていなければならない。



それから逃れようなどと

無駄な努力をする必要なんかない。




むしろ

楽しむのだ。




人は本能的に

苦痛を避け快楽を求める。



だが

本当の快楽は



苦痛の先にあることを知るものは少ない。




孤独と苦悩を心底感じた時、


それは


一端のオヤジと経営者になった証なのだ。




喜べ、そして歓迎せよ。



さらに堪能せよ。



孤独と苦悩の世界に浸ることを。

病と自然

2012年06月27日 | 人生
病と自然に対する考え方は似ている。


そしてそれは

東洋と西洋の違いでもある。



西洋思想は、概ね征服にある。

戦いにある。



自然も病も、

戦って打ち勝つことを人間の営みとしてきた。




いっぽう、

東洋では、同化にある。



一体となる。

融和を計るといってもいいかもしれない。



戦うのではなく、

仲良く一緒に暮らす。




西洋が、敵と戦うのを常とするなら、

東洋は、そもそも敵を作らない。




融合、融和、一体化こそ求められる。



あんな奴と仲良くできるか、

と考えるのが西洋であり、



あんな奴とでも友達になろう

というのが東洋だ。



それは

宗教観に如実に現れる。



そもそも

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も


原点は一緒だ。


旧約聖書、新約聖書、コーランといった聖典に

言わんとすることにはさほど差がないように思われる。



なのに戦いが絶えない。




仏教にも宗派は数多くあれど

従うべき聖典はない。



一神教と多神教という違いもある。


儒教や道教といった

戒律より道徳に訴える考えにもよる。






病気に関しても

自然治癒力に対する考え方にも

大きな違いがある。



いわゆる

東洋医学と西洋医学の違いだ。



薬の投与によって病原をたたくのか、


せいぜい漢方薬ぐらいにとどめ、

ユックリとした回復を目指すのか。



一時的苦痛を和らげる必要はあるだろう。

モルヒネはいい例だ。



だが、根本的治療にはつながりにくい。





それは人生論にも哲学にも似る。




敵を武力や力でねじ伏せるタイプが

ヒーローとなる世界と、



ガンジーのように

非暴力を貫いたヒーローもいる。



アウン・サン・スー・ティさんも然り。



東洋人には

派手さや瞬発力はさほどなくても、

粘り強さがあるのだろうか。




抗鬱剤

抗がん剤


睡眠薬

鎮静剤



といった薬にはいささか抵抗がある。


副作用もある。



病を避けて生きることは出来ない。


ガンの恐怖を拭い去ることもできない。




ならばそうなった時にどう付き合うか。


自分なりに考えておく必要があろう。



それは

人生観であり


自らの哲学なのだから。

花嫁の父

2012年06月26日 | 人生
もうすぐ下の娘が結婚する。

ニューヨークにいる。

相手もニューヨーカー。


プエルトリコ系である。





先日こういうニュースを目にした。


「1年間に米国に流入する移民のうち、

アジア系が36%を占めて

ヒスパニック(中南米系)の31%を上回り最多となった」 と。




「アジアの移民が増えているのは、

それだけアジアの経済発展の裏で経済格差が広がり、


貧困から逃れるために自国を捨て移民する人が増えたのが大きな理由。



一方、

ヒスパニック系が減少したのは

不法移民対策の厳格化もあるが、


ブラジルなど経済成長による賃金上昇したことも挙げられる」 という。



娘の結婚相手が

プエルトリコ系ということは


つまりヒスパニックである。




上の娘の結婚相手もアメリカ人だが、

サンフランシスコのチャイニーズアメリカン。




確かにボクの身近なところでも

アメリカ人といっても


アジア系、ヒスパニック系となっている。




ご存じのように

アメリカは移民の国である。


先進国では珍しく人口が増えている。


現在3億人を超える。




そのなかで

白人は60%余り。



40%近くが非白人が占める。



その中でも上記のように


ヒスパニックとアジア系で70%近くを占められている。


その他はアフリカ系と

ごく少数のネイティブアメリカン系だ。




これは州によっても大きく異なる。


ニューヨーク州とテキサス州では

ヒスパニック系が半数近くを占めている。



それ故に

ニューヨークではスペイン語が必須なのだ。



それ以外でも

アリゾナ州、コロラド州、フロリダ州、イリノイ州、ニューメキシコ州など

9つの州は、ヒスパニックが多い。




アジア系は、

カリフォルニア州とハワイ州が圧倒的に多い。





さて

娘婿たちは二人ともアメリカ人だが

アジアとヒスパニックに決定した。




残るは

サンフランシスコに住む息子の嫁さんだ。



人種差別するわけではないが、


思わず

青い目のブロンズ美人を望むのは



日本男子の性(さが)なのか?



ヒスパニック系の方が美人は多そうな気がするけど。

情熱的でもあるし。


反面

気が強い、か?



何処の国でも

女が強いのは共通かもしれないが。



昨今の

日本の大和撫子も例外ではなさそうだ。




間違っていたらごめんなさい。

先に謝っておきます。


怖いから。

戦士の休息

2012年06月25日 | 人生
久しぶりに何を書こうか迷ってしまった。


ネタはいろいろあるが

いざ書くとなるとまとまらない。


毎度のこととはいえ、支離滅裂感が漂う。



2週間ぶりのOFFなので気が抜けてしまったせいもあるだろう。

それにこの雨だ。




戦士に休息はないといった舌の根も乾かないうちに

このざまだ。



一人時間を嗜(たしな)むことの喜びを知ったら

それ以上の至福は見当たらない。




しかも

ここは自然の真っただ中。



雨に濡れた草木を愛でながら

思索と弛緩を繰り返す。


こうした時間を持てる幸せを噛みしめる。




余りにめまぐるしい身の回りに

少々辟易気味だからなおさらだ。




それにしても

なぜこんなに慌ただしい世の中になってしまったのだろうか。



便利さと引き換えに

心のゆとりを失ったのか。



知識への欲望に駆られ、

情報の渦の中に巻き込まれてしまったのか。



あらゆる欲求を満たそうとして

追及してきた人間の驕りへのツケが至る所で噴出している。




個人的には

理想的な生き方を渇望しつつ、

分裂した心に苦悩する。





それでも

戦火のもとにあるシリアの人々、

搾取におびえる北朝鮮の人々、


貧困に喘ぐアフリカの難民を想えば



なんと贅沢日々かと自嘲すらしてしまう。




庭のアジサイは

激しい雨に打たれながらも凛とした姿を見せている。




やはり

戦士に休息は似合わないのだろうか。

ボクに投資しませんか

2012年06月24日 | 出版
ボクに300万円投資してください。


出版社に企画書を送るのは

DMで300万の投資を呼びかけることと同じ。



その意気込み、覚悟を忘れている。



ビジネスを起業するときも同じ。


銀行から借り入れを起こす時

事業計画書を作る。



あるいは、出資者を募る時もしかり。



この企画ならお客さんが来て買ってくれる。

だから金利をつけて返済してくれる。



それならお金を出してやろう、

という気になるのだ。



そうして事業を起こしてきた。



借入(借金)をし、

時には出資もしてもらった。




出版も事業である。


企画が採用されないのは

売れませんよ、


誰も買ってくれませんよと言われているのだ。






ビジネスは一種の賭けでもある。



賭けてもいいと思わせる

熱意と覚悟があるかが問われる。



そして

お客様(読者)のニーズと

出資者(出版社)への感謝の気持ちがなければ

それは伝わらない。




ビジネスはすべからく衆目に晒される。

批判やクレームもある。



受け入れて改善する素直さも兼ね備えなければならない。





ビジネスもオープンすれば終わりという訳ではなく

持続可能な経営が求められるように、

本も出したら終わりではない。




時代を読み、

同時に未来も読まなければならないのも


ビジネスの鉄則であり

出版の掟でもある。



鋭い観察力と洞察力に加え、

先を見通す先見性も不可欠だ。






ビジネスが

顧客に喜ばれ、満足してもらわなければいけないように

当然出版も

読んでよかったと思っていただけるものでなければならない。



そうでなければ

2冊目はおろか、


増刷もままならないであろう。




消え去る

忘れ去られるのはご法度である。




出版は何も特別なものではない。

基本はビジネスなのだ。



自分勝手な自慰行為ではだれも相手にしてくれない。

絞り込んで膨らます

2012年06月23日 | 出版
出版のための企画書を送った。



結局当初考えていた内容とはかなり違うものになった。


どうしても

自分の書きたいこと、言いたいことを

何でもかんでも盛り込もうとする。


読書の興味に関係なく。



結果、焦点もボケてしまう。



自分でも何が言いたいのかさえ分からなくなる。



ていうか、

読者としてそんなこと聞きたくないよ


ということまで書けば

本を手に取って買ってもらうどころか


読もうという気にさえならなくなる。




商業出版においては

自分の言いたいことを書くのではない。



読者を想定して

多くの読者の知りたいこと、興味のあることを書かなければ


一冊も売れないのだ。


いや、一冊ぐらいは買ってくれるだろうけど。

お義理で。



だから出版社もそんな本は出してくれない。

相手にもしてくれない。




そんな単純なことすら気づかなかった。


いや、分かっていたけど

気付こうとしなかった。




ひたすら自分の興味だけで書こうとしていた。







で、今回どうしたか。


何でもかんでも網羅することを辞めた。




一つの具体的カテゴリーに絞り込んで

その中を広げていくという手法
をとった。


Narrow down and Blow up Method

もしくは

"Shurinpand" method

という。(ボクの造語)



盛り沢山は

もう沢山になりかねない。





何でもかんでも広げようとする、

オールマイティであろうとする欲望を捨て去り



一つことの専門に特化した方がいいことにやっと気づいた。



何でもかんでも書こうとしていた結果

行き先を見失っていた。。





読者は何を求めているのか。


それすら分からず、気付こうとせず

自分の知識や情報をばらまこうとしていたのだ。





このブログにしてもそうだ。


ボクがいつまでたってもメガブロガーになれないのは

たぶんそこに課題があるのだろう。



よく、引き出しが多いですねと言われる。

だがその引き出しの奥行きはない。



浅く広くをモットーとすることは

専門的でないことを意味する。



浅薄短小は、薄利多売に通じる。


ド素人のバカ力を推奨するあまり、

掘り下げるという探究心すら失ってしまった。






ボクは、何の専門家ののか?


〇〇のことならボクに任せてくれ、

と自信を持っていえるものはあるのか。



あるとすれば、

それは何か?



資格を持っているなら、

それを生業(なりわい)としているなら、


プロ、専門家といえるのか。



現実は

ナンチャッテ・プロがいかに多いことか。






読者がボクから知りたいのは何か。



旅なのか、

英会話なのか。


それとも・・・。



誰もボクの生き様なんか興味を持たないだろう。

ごく一部を除いて。




読者は、

漠然とした内容より、

興味のあることを具体的で、深く知りたいという欲求がある。




有名人なら

その人のことが知りたくなるのだろうが



何処の誰かも分からないヤツの生き様なんか

誰だって興味なんかあるわけがない。




あんた、ダレ?

何様のつもり?って言われるのが落ちだ。






人が見ている自分と

自分が思っている自分は


往々にして違いがある。




自分が自分はこういう人間であると思っている、

思い込んでいる姿と、


人が、あいつはこういう人間だと感じている姿には

無視できないほどの開きがあるのだ。



それに

傍目を気にするほど

周囲はあんたのことなんか気にしていない。





ポピュリズム(大衆迎合)に陥ることなく

自己主張をしなければならない。



それが

読者の共感と一致した時、


本は売れるのだ。



自分の言いたいことは

2冊目から書きなさい、と言われた。




最初は、

売れる本をひたすら書きなさい、とも。



増刷してもらえる本を。


初版が6,000~8,000部といわるので、

一万部が目安だろうか。




いずれにせよサイは投げられた。



結果を待とう。





【補足】


企画概要のポイント



・あなたが書かなければならないという必然性

”今”出さなければならないという必然性はあるのか



・つまり、あなたの独自性優位性はあるのか。

”今”というタイミングは適しているか。


時代はそれを求めているのか



・本を読んだ後の到達点が明確に出ているか

共感は得られるか


・内容に根拠具体例があるか、などなど