世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

夢を語り、愛を育む

2016年01月31日 | 100の力
人生に必要なものは、

金(資金)かスキル(資格)か才能(資質)か。


否。

人生に本当に必要なもの、

それは、


『夢』



『愛』


夢と愛があれば生きていけるのだろうか。

霞を食って生きていると言われる仙人のようにはいかないだろう。


確かに、

3資(資金、資格、資質)はあったほうが良い。

だが、それぞれに夢と愛を吹き込まなければ

何事も成就しないだろう。


夢を語れば仲間が集まる、

愛を与えれば大切な人が分かる。


人生に必要なもの、

それは、人だ。

人は一人では生きられないものだから。


ビジネスも夢の実現の一つだ。

それには、やはり人(仲間・理解者・賛同者)が必要となる。

夢を語るに暇がないが

そこに愛が欠けていたのではないだろうか。


愛とは、思いやる心。

なかったとは言わないが、不足していた。

届かなかった。


今はその反省に立って、心を整理している。

夢を語るに忙しく、愛を吹き込む余裕をなくしていたのではないだろうか。

夢は、自分の中で育むこともできるが、

愛は、対象がいる。


愛を注ぐことに恐怖を感じていた。

ビジネスには愛というよりある意味厳しさが要求されるものだ。

夢をビジネスに託し、

愛がいつしか冷酷さという醜い姿にとって代わっていたのかもしれない。


思いやりが足りなかった。

それは、愛を惜しげもなく与えるには不十分であったのだろう。


言い訳に過ぎないのは分かっている。

いま、愛を注ぐ対象を見つけた。

人を愛することに怯えていた。

その恐怖感を払しょくして余りある人を見つけた。



一緒に夢を追い、愛を分かち合える人に。

Dream together, share love.


もうダメだ 

2016年01月30日 | 100の力
もうダメだと思うときがある。

いや、これまで、何度もうダメかもしれないと思ったことか。


だが、まてよ。

ダメって、何がダメ?


それって、努力放棄?諦め?無責任?

頑張ったけど、報われない?

頑張ったけど、望んだ結果が出なかった。

頑張ったけど、成功しなかった。


本当に頑張ったの?

どこまで頑張った?

そもそもガンバルって何?

死に物狂い、って言うけど、死んでないじゃん。

どうしてそこで辞めちゃうの?

もうやり尽くしただって?

打つ手がないだって?

もう限界だって?


誰が決めたの?

限界だなんて、自分で勝手に決めてんじゃないよ。


まだがんばればいいじゃん。

続ければいいじゃん。

ガンバルって、努力することでしょ。

一生、死ぬまで生きる努力をしなきゃ、生きられないのが人間。



本当に頑張った?

望んだ結果って、何?

成功って何?


一生懸命やったのに結果が出ない。

すべてを投入して思い切ってやったのに思う成果が上がらない。

そんな壁にぶち当たった時、人はもうダメだとへこんでしまう瞬間がある。


そういうときは、

ちょっと間を置く。

気分転換に旅に出る。

近くでもいい、環境を変えてみる。

いつもと違ったことをしてみる。

スポーツでもいい、映画や、美術館などに出かけてみるのもいい。

一回、忘れてみる。

やり方、方法を変えてみる。


そのうえで、

Next!

はい、次行こう!


気分爽快。

まだ余力あり。

すべて良いように取る。

おめでたい人間になることも必要だ。


潰れそうになったら、自分を叱咤激励することも必要だ。

俺はやれる!

俺は、へこたれない!

俺はやる!

絶対やる!

そう決断したとき、そこから道が開ける。

諦めなければ、何とでもなる。


トルストイは言う。

「人は踏みなれた生活の 軌道から放り出されると、もうダメだ、と思ってしまう。

しかし、実際はそこからようやく新しいものが始まるのです」と。
            

その「もうダメだ」と思った瞬間が 実は自分のパターンを変える絶好のチャンスなのだ。

何より、もうダメだと思えるぐらい、もう死にたいと思うぐらい頑張ったことじたい本当に素晴らしいことなのだから。

そこまで出し切った人にしか、自分を変える本当のスイッチは入らない。

心の底から謙虚に、自分のアプローチを改善することを進んでやれる瞬間なのだ。

素直になり、謙虚になり、感謝の気持ちを持てる瞬間。


そして、その時こそが決断の時。

今までの行動を変える本気の決断をすることができる。

もうダメだと思った瞬間が 一番、ゴールに近づいている。

その瞬間から成功が始まる。

「夜明け前が一番、暗い」というではないか。


精根尽き果てクタクタになってもう動けない、と思った時から

本当のスタートが切れるんだ。

すべてを出し切ったその瞬間から本当の実力がつく時が訪れる。


持てる力を出し惜しみしてないか?

余力を残そうとなんて考えてない?

フルアウト(出し切る)することの 大切さを理解してる?

スポーツのみならず、人生やビジネスにおいても全く同じことが言える。


力はまだ残ってるんじゃない?

まだまだ走れるんじゃない?

ほんとうにすべてを出し切って、 それでももうダメだと思っっても、

諦めずもう一度やってみたら。

もう、そんな時間も余裕もないと思っても、なんとかもう一度やってみたら。

それでも結果が出ないとしても、 やり方を変えてもう一度やってみようよ。

もう、無理だと思っても、とにかくもう一度やってみよう。


地べたに這いつくばってでもいいじゃないか。

石にしがみついてでもいいじゃないか。

歯を食いしばって、泣きながらでもいいからとにかくやってみようよ。

そこからようやく新しいものが始まるから。

本当の扉が開くから。

本当の人生が始まるから。

思わぬ展開が待ってるから。

うそじゃないよ。

ボクが証明してみせる。



あのね、

誰も見捨てやしない。

天は見てる。

地は知っている。

誰かしら人は観察してるんだ。

その姿を。


もっともがけばいい。

もっと苦しめばいい。

地獄を見ればいい。

そこで初めて人のありがたみが分かる。

そして、救われる。


悔し涙が、歓喜の涙に変わり、感謝の涙になる。

その時、一回りも二回りも成長した自分の姿を見ることができるから。

悪党の正体

2016年01月29日 | 100の力
悪党というものは、どこまでも悪あがきをする。

自分には一銭の得にもならないのに、

他人を貶(おとし)めようと躍起になるのはなぜだろうか。

理解に苦しむ。


昨日のボクの投稿に対して、

多くの方々から、コメントやメッセージをいただきました。

ありがとうございます。

心から感謝いたします。


その中に、見知らぬ人から長々とコメントを頂きました。

吉岡留美子とい名の下で。

ところがどうも、偽のアカウントを作って(実態は男性)よこしたものであるらしい。

しばらくする(1時間くらい)と自ら削除してあった。
(人には削除するなと言いながら)

さすがに自分の醜さに後ろめたさを感じたのでしょう。
(根っから悪い人ではないのだが、極めて気が弱い人だから)


結局、こうした人は何が言いたいのでしょう。

相手を貶めることで、自分を正当化したいのでしょうか。

ボクも、自分のほうが正しいと言いたい衝動に駆られる時がある。


だけど、どんなことでも、一方が100%正しく、

片方が100%悪いなどということはないと思う。


どちらも正しい部分もあれば、悪いところもある。

その比率が別として。


ただ、100%自分が正しい、100%相手が悪いとして

卑劣な誹謗中傷を繰り返すのは、手段としていただけない。


自分の非は非として認め、相手の正しいところは謙虚に受け止めるなければいけないと思う。

そうして、極力相手の悪口をいわず、

攻撃(口撃)もせず、攻めず(責めず)穏やかに話し合うのだ一番なのではないだろうか。

そして、落としどころを模索していくのが良い。

いわゆる妥協案を示し和解すること。


トラブルを起こさないようにすることもは大事だけど、

もっと大事なことは、起きたトラブルをどう解決していくかということだ。


社会生活において、特に人間関係においては、

大なり小なりトラブルは避けられない。

避けることに気を使いずぎると、結局自分を壊してしまう。


なぜなら、トラブルを起こさないためには、

相手の要求を100%飲むことになるからだ。

逆を言えば自分の欲求を我慢して出さないように殺してしまわなければならない。

それが募り募ってストレスとなり、

キレることで爆発(パニック)するか、内に秘めてウツ(ふさぎこ込む)に陥るか。


トラブルに直面したときに、いかに円満に解決するかを試みたほうが良い。

お互い、我慢するところは我慢し(忍耐力)、

認めあい、受け入れるところは受け入れる(許容力)。

そして、肝心のなことは、

許し合い、感謝し合うことだ。

そうすれば、お互いをリスペクトし合うことができる。


そうして、自ずといい関係が築けていくものだ。

何も、好き好んでいがみ合う必要はない。

個人間のトラブルはもちろん、戦争においてもそうであってほしい。


気の合う仲間と悪口を言いあって(相談しているというが)留飲を下げるより、

直接会って話ししましょう。

The door is always open for you.


嫌われる理由(わけ)

2016年01月28日 | 100の力
評判が悪いらしい。

それも相当。

いたるところで悪口をいわれているらしい。


ブログに届いたコメントがある。


・コメントを書いた人
頑張ってください

・タイトル
頑張って下さい。

・コメント

ブログ拝見しています。

いろんな方から、かじさんの悪口を聞きますがブログに書いてあることとかなり違いますね。

多くの方から聞くのは、

最初はバイト代を払うような話でしたか、結局払ってくれなかったとか、

約束のお金をなかなか払ってくれないとか、その類いの話ばかりです。

普通に考えて、当たり前にやっていれば、そんな誹謗中傷はおこらないと思います。


以上。


つまるところ、お金の話らしい。

思い当たる節はある。

だから、誰がそんなデマゴギーを流しているのか、察しはつく。

火のないところに煙は立たないから。


当たり前(常識)の基準が違うのだと思う。

もし当のご本人が正しいと思うのであれば、

なぜボクに直接言って来ないのであろうか。


リアルで会っても、目を合わせずコソコソと逃げていくのはなぜだろう。

そして、

ボクのいないところで、関係ない人に鬱憤を晴らすかのように

ボクを悪者に仕立て上げ、大袈裟に悪口雑言を並べ立てる。


また、それを聞いて、鵜呑みにしてい偏見や憎悪を抱く人も

ボクの当たり前の感覚では信じられない。
(ボクをよく知らない人どころか、会ったこともない人まで)


ボクの当たり前の感覚によれば、

悪口をいわれる人より、

悪口をいう人の人間性を疑う。


ボクは、基本的に人の悪口を言わないようにしている。

むしろ、その人の良い面を見つけて褒めることに努めている。


誰だって、良い面もあれば悪い面も持っているのだから。

悪い面だけを見て(聞いて)、その人を悪い人間と判断する(決めつける)のか、

良い面にフォーカスしていい関係を築くのか。

そして、そのどちらが当たり前のか。

それは、その人の人生を見れば一目瞭然である。

表情を見ても明らかだ。(暗い、貧相な人が多い)

どちらが人生を謳歌しているか。


ボクを悪人に仕立て上げ、貶めようと躍起になっている人は、

羨望からきているのではないだろうか。


ボクは、どんな状況に置かれても、

愚痴をこぼさず、前向きに進んでいく。

人生を謳歌している。(それなりに苦労はしているのだが)


それが気に食わないのだろう。

本当に嫌な奴なら、口にするのも、話題に上げるのも嫌なものだ。

それが当たり前ではないだろうか。
(どうやらここでも当たり前の基準が違うようだが)


口にするのも嫌な(悪い)奴を

わざわざまな板の上に乗せて酒の肴に裁こうとするのは、

他に話題がないからだろう。

(つまり、夢や希望を語るべきものがない、あるいは少ない)


また、それに耳を貸して相槌を打つのも暇人としか言いようがない。

とはいえ、

いずれにせよ、かじえいせいに関心を持っていただき

貴重な時間を割いて頂いていることに感謝いたします。

ありがとうございます。

頼れる秘書?

2016年01月27日 | 100の力
弁護士事務所を訪ねた。

20年前(久住時代)お世話になった弁護士さんだ。

当時の記憶が蘇える。


車のない(修理中)ボクは、送迎を彼女に頼んだ。


事務所に着くと、

彼女はごく当たり前のように一緒についてくる。

弁護士との話は退屈だから、どこかで待っていてもらおうと思っていた。


「一緒に来るの?」

意外に思うボクの質問に

「当たり前でしょ」というように彼女は少女のような微笑みを返した。


弁護士との接見の間、

一時間、彼女はメモを取り続けた。

それはまるで秘書の姿だった。


帰りの車の中で、彼女は総括した。

今度は一変して、まるで弁護士そのものだった。

彼女が当然のようにボクに付いてきてくれた意味がこの時理解できた。


時々、ボクは彼女の洞察力に感服させられる。

人を見抜き、先を読む。

時に彼女は霊能者のようにふるまう。

この感性はいったいどこから来るものだろうか。


いろんな場面で、ボクは彼女に助けられている。

冷静な判断。

的確なアドバイス。

仕事はテキパキとこなす。

まるでそつがない。


それでいて、

どこまでも妖艶さを保っている。


    (時には少女のように、時には娼婦?のように)


そんな彼女だが、

心の病気を患っている。

といっても、にわかには信じられない。

あらゆる面で優秀で才能ある彼女が、うつ病だなんて。


少なくても、ボクの知る彼女は陽気で明るい。


時に辛辣にボクを批判するが、細かい気遣いも見せる。

時に常識を振りまき、時にあきれるほどの非常識さを見せる。

時に天使のように振る舞い、時に悪女に変身する。

この落差もどこから来るのだろうか。


また、それが彼女の魅力なのだが。


ボクが今、人生最大の苦境の最中にあっても、

なぜか陽気でいられるのも彼女のお陰だ。

彼女に感謝。ありがとう。


【追記】

これを幸せといわずに、何が幸せといえようか。

寄り添って

2016年01月26日 | 100の力
こんな寒い日は、より一層人肌が恋しくなる。


    ベッド脇のキャンドルライト

身を寄せ合い、毛布にくるまって眠りに落ちる。

寒いね、って言って握りしめた手から

心のぬくもりが伝わる。


足を絡ませ、吐息の漏れる唇を合わせる。

胸の鼓動を感じながら、お互いの愛を確かめ合う。


生きててよかった。

君と出会えてよかった。

君といてよかった。

君を愛してよかった。


幸せになろうねって、抱きしめると、

冷たい小さな肩が震えてた。


いつも側にいるよ。

君を離さないよ。

君を愛し続けるから。

こぼれる涙を唇で拭う。


これから先、どんなことがあっても君を受け入れる。

過去に何があったか知らないけれど、君のすべてを許すから。

君を傷つけるすべてのものから、君を守るよ。

君と一緒に生きるのだから。


そう、心に誓った凍てつく寒さの夜だった。

停滞する日々

2016年01月25日 | 100の力
活動休止状態。


車が故障して足止め状態に追い打ちをかけるように大寒波に大雪。

動けない、動かない。

すべての予定をキャンセルしてでも、無理をしない。

今はマテの状態である。


焦る気持ちを封印し、じっと体力を温存し、気力を増幅させる。


移動に次ぐ移動の繰り返しであった昨年に比べ、

一転、まったく対照的な不動の年の初めの一か月が過ぎようとしている。


武田信玄の風林火山に例えれば、

今は、動かないこと山の如しを貫く。

さらに、静かなること林の如しを保つ。


そして、いざとなれば、

風の様に早く移動し、

動くこと雷霆(らいてい)のごとくになり、

侵掠(しんりゃく)すること火の如くなることに素早く切り替える。


これが人生を上手に生き抜く戦法なのだ。


動かず、じっと耐え忍ぶ。

よけいな雑音に紛らわされず、

その間、綿密な計画を練る。

今はその時期。

ボクは潰れない

2016年01月24日 | 100の力
訴訟だ、離婚だと言うと、

それだけで大変なことが起こったように聞こえる。


大丈夫か?

大変ですね!

と気遣いのお言葉を頂く。

それはもちろん大変ありがたい。

心から感謝しています。


ただ、こうした一連の事態は、

一見大変なことのように見えるが、

次のステップには必要なことなのです。

リセットはできないので、

その問題の解決後に、より素晴らしい展開が待っているのです。


予定外、想定外の出来事が、

後から振り返ると、良かったと思えることはよくあることだ。


別れや離婚は次のもっと素晴らしい人との出会いに必要だったり、

事業の失敗は、次のさらなる大きな事業展開には必要だったりするものだ。


確かに、デートするにも、結婚するにも、事業を企画し興すにも

膨大な時間とお金、労力が必要とされる。


だからこそ、一度始めた結婚生活や事業を継続させて辞めようとしないし、

中断することを恥だと感じるのだろう。

もちろん、続けばそれにこしたことはない。

結婚生活も事業も30年、50年と続けているところには

敬意を表さずにはいられない。


一方不幸にも(敢えて不幸と呼ぶが)中断せざるを得ない場合は、

さらにいい形を作るためのステップと考えるほうが

精神的にもいいであろう。


それまで注ぎ込んできた資金、時間、エネルギーといったものを

未練がましくいつまでも惜しむより、

授業料、(自己)投資だと思って切り捨てることが必要かもしれない。


世間的には、

バツ一やバツ二とかいったり、

事業の失敗とか言ったり否定的に扱う。


それが本当にバツなのか失敗なのかは

その後の展開にかかっているのではないだろうか。


さらに上を目指し、実現させれば

別れてよかったね、失敗してよかったねと思われるようになる。

「災い転じて福となす」

① turn a misfortune into a blessing (fortune)
② good coming out of evil
③ Bad luck often brings good luck.


もし、

一度や二度の失敗で潰れてしまえば、 

それみたことかとバカにされるだけだろう。


だから、

ボクは、

別れの度に、失敗の度により高みを目指し、

またそうしてきた。


今回もそうだ。

幸い、

ボクには目指すべきより高い夢がある。


後生大事に一つ事に打ち込むことも大切だが、

期せずしてunexpectedly(意に反してagainst my will)、それができなくなってしまったからには、

さっさと次の段階に進むことが使命なのだと感じる。


So what?(だから?/それがどうした?)

と、時には開き直る(a‘so‐what' attitude) ことも必要だ。


ある意味、その考え方を冷たいといってなじる人が多いことも事実だ。


ある人はさらなる冷たい仕打ちでボクを潰しにかかる。

何度も苦汁を飲まされてきた。

裏切られ、騙され、罵られ、訴えられ、誹謗中傷を受ける。

それは今も続いている。

どうやら、ボクにはそうした輩を惹き付ける習性(性癖)が備わっているかのようだ。

(ボクを潰そうと躍起になってエネルギーを注いでいる方々は無駄な時間を割いていることになるが)


おかげで、

叩かれ強くなった。

打たれ強くなった。

これも訓練(修行ともいう)の賜物だろう。


その根底には、

憎しみや怒りというものではなく、

「見返してやる」という負けん気が渦巻いているようだ。


怒りや憎しみは、報復として相手に向けられる。

それは、さらなる憎悪を生み決して良い結果は生み出さない。


「見返してやる」という内なる気持ちは、

自分の中に情熱を生み、その矛先は自分自信に向けられる。

それが自らの成長(自己成長)へとつながる。


そして、不死鳥のように甦る。

より成長した姿になって。