福井 学の低温研便り

北海道大学 低温科学研究所 微生物生態学分野
大学院:環境科学院 生物圏科学専攻 分子生物学コース

ユーミン症候群治癒

2007-04-30 22:45:06 | 日記・エッセイ・コラム

無事下山し、札幌に帰りました。爽やかな風を浴び、良い汗をかいて、すっかり、ユーミン症候群が治癒いたしました。

そう言えば、往路の羽田便では、他部局のA教授とご一緒になりました。羽田空港到着後、ボーディングブリッジを渡ろうとした時、ザック姿の私を見て、A教授が一言。「福井さん、楽しそうですね」

思わず、「A先生は、研究が楽しくないのですか?」と言いかけたのですが、ぐっと言葉を押し込む。きっと、A先生は、私の想像を遥かに超えた、研究以外の重責を担っているに違いありません。そうした先生たちのおかげで、私たちがのびのびと研究できるのでしょうね。

私が大学院生の頃のこと。下宿の左隣のセンパイがこんなことを言っていたことを思い出しました。「研究が思うように行かなくなったら、なぜ、自分が研究を始めるようになったのかを思い出すことだよ」

時に、初心に立ち返ることで、救われることもあるのではないでしょうか? 最近、左隣のセンパイは、英文で書かれた専門書の監訳書を出版いたしました。訳者陣は、彼の教え子たちです。うーん、なるほど、そう言う手がありましたか。

それでは、私たちは? 今、思案中です。


ユーミン症候群再発

2007-04-28 04:52:28 | フィールド

今週、朝日新聞のユーミンが低温研に来所(これについては、そのうち紹介)。あれやこれやと、南極や山のことを話し合っていたら、「ユーミン症候群」が再発。

07042702070427と言うことで、新千歳空港発の早朝第一便で、ひとっ飛び。着いた場所は、桜の季節を迎えていました。これより、山に入ります。携帯電話が通じないため、ブログの更新ができないかと思います。下山しましたら、また、お知らせいたします。

それでは、行って参ります。


Mさんからのメッセージ

2007-04-27 00:03:22 | 教育

低温科学研究所に所属する教員は、大学院を担当できても、学部を担当することが出来ない状況にあります。もちろん、一般教養課程の全学共通講義「寒冷圏の科学」の一部を担当していますが、専門課程の講義や実習を受け持てないのは、極めて残念なことです。

前の大学では、学科の教務委員や担任、理学部?大学院理学研究科の教務委員(教務委員長までつとめました)、教育実習委員、全学一般教育委員そして全学教務委員と、教務畑を歩んで参りました。中でも、教育実習委員は、人一倍力を入れました。毎年、生物学科で十数名ほどの実習生を中学校や高校へ送るのですが、彼らの研究授業を参観して、現場の先生方とお話しすることが楽しみでした。結構いろんなところを回りました。関東圏は旅費が支給されるのですが、それ以外は私費扱いです。最も遠いところは、岐阜県の岐阜高校でしょうか。

大学1年生向けの教養課程の講義も積極的に担当していましたね。もちろん大教室での講義です。150人位の学生数であれば、1回目の講義で名前を覚え、2回目からは名簿を見ずに学生を名指しであてることができました。

研究室以外の学生さんたちと接するのも大好きです。生物学科の学生はもちろん、他の理系や文系の学生達と接することが根っから好きなんだと思います。理由はわからないのですが、好きなんです。

実は、このところある種の寂しさや物足りなさを感じていました。なんなんだろうと思っていた矢先、立て続けに、教え子たち、他の研究室の卒業生たち、そして前の職場の事務系の人たちからお便りをいただいたのです。苦労を重ねて来たけれどやっと就職が決まったとか、お子さんが生まれたとか。そのうちの何人かは、私のブログをたまたま発見し、ありがたいことに隠れファンになっていただいているとのこと。何かコメントしたいが、実名ブログのため、コメントしにくいとのことです。

お便りのうち、昨日のMさんからのメールは、私への励ましメッセージでもありました。詳しいことは書けませんが、Mさんは長い間米国の大学でポストドク(博士研究員のこと)をしていたのですが、帰国して実家の農業を継ぐとのこと。その人生の岐路にたち、どうしてそのような選択をしたのか、延々と綴ってくれたのです。途中から、涙がぽろぽろと溢れて来たのですが、Mさんらしい前向きな姿勢に、なんだかこちらが励まされました。

こういうとき思うのです、大学の教員になって良かったと。Mさんからのメッセージで、私自身も忘れかけた何かを思い出しました。

北海道大学でも、フィールドに根ざした環境科学部を新設してみてはどうでしょうか? 第一線の研究を行いながら、学部での講義を楽しく行う。これです! これから、残された大学教員人生をかけてみようかと思うのですが。

そして、その一歩として、今度の大学祭での講演会をお引き受けすることといたしました。エネルギッシュな学部1、2年生の依頼は断れませんから。

雪氷系の中堅研究者の方からは、「浅はかなブログだねえ」と言われ続けているのですが、こうして、いろいろな方からメッセージをいただき感謝しております。しばらく、ブログも続けていこうかと思います。

最後に、Mさん、ありがとう。帰国したら、札幌にぜひとも遊びに来て下さい。

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童謡「かなりあ」
         詩・西条八十

 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す   

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4月誕生会

2007-04-26 05:04:44 | 低温研のことごと

この季節の札幌にしては、とても暖かな一日。ワイシャツ一枚で外を歩いても汗ばむ、そんな日。

今月は、研究室のKさんが誕生月。午後のお茶の時間に誕生会を開催。コンパの度に、オリジナルスウィーツを作って来て下さるKさんにはどんなケーキが良いのだろう? きっと、幹事もチョイスに苦労したに違いない。

070425で、決まったのが、チョコレートケーキ、ストロベリームース、そして、ポップコーン。最初、ポッポコーンに違和感を覚えましたが、ケーキを食べた後、談話中、塩味のきいたポップコーンがほのぼのと弾きまくっていましたね。ポンポンポーン、と! 「ワラハラ」(笑いハラスメントのこと。雪氷系中堅研究者Aさんを中心とする笑いの輪の会の造語です。この言葉、イタダキッ! 通称「ワラハラ会」の人たちに、冴えないメタボ系中年オヤジは、助けられっぱなしです)には、くれぐれも気をつけましょうネ。

何はともあれ、Kさん、お誕生日おめでとうございます。

来月の月例コンパは、いよいよ、ジンパ(ジンギスカンパーティのこと)登場か?


自分の弱さをいとおしむ

2007-04-25 05:16:24 | 悩み

朝一番の新千歳空港発の飛行機には、道新(北海道新聞のこと)の朝刊をのせています。ある日、羽田に向かう飛行機の中で、道新朝刊のページをめくっていると、あるコラム、と言うよりは、そのコラムの執筆者名に眼が止まりました。

その名前は、庄井良信(北海道教育大学・助教授)。庄井良信? もしかして彼では?

その日、仕事を終え、帰宅後、インターネットでその名を調べてみました。やはり、そうでした。同級生だったのです。

私が入学した頃の新潟大学教育学部は、新潟、長岡、そして高田(現在の上越)に分れていました。高田、あるいは長岡の分校で2年間を過ごした後、多くの学生は3年次から新潟本校(当時は、新潟市の旭町にあった)へ移って勉強することになっていました。

長岡分校の前身は、女子師範学校。中越地区の山間部の子弟が多く通う長岡分校にあって、庄井君は新潟市(新潟県では最大の都会)からで、とても上品な方。彼も私も小学校教員養成課程の学生で、児童文化研究会に属していました。このサークルの主な活動は、人形劇や民話劇を山間部の小学校をまわって、行脚公演すること。中越地区は、2004年の中越地震でも良く知られるようになりましたが、山間部の僻地が多いのです。越後交通バスを何回か乗り継いで、何時間もかけてやっと辿り着く小学校の分校が多い地区でもあります。

1年生の時の夏休み行脚では、人形劇「PQおじさんの大冒険」と民話劇「夕鶴」を公演することになりました。庄井君は民話劇の裏方、私は人形劇のPQおじさん役(一応主役か?)。公演は、夕方、分校の体育館で行われ、小学生たちも親御さんも、とても楽しんでくれました。公演後、分校を立ち去ろうとする私たちを、子供たちは離してくれないことも良くありました。芸能人じゃないのに、サインを求められたり。その後、何年にも渡ってファンレターが届いたり。

ある分校での公演後でのこと。その日の公演の出来をみんなで反省した後、庄井君が暗くなった舞台にスポットライトをあて始めたのです。何事が始まるのかと思ったところ、彼が舞台に上がり、夕鶴の「つう」を演じ始めたのです。裏返った声で「つう」役を真剣に演じる庄井君を前にして、みんな大笑いです。華奢で弱々しい「つう」のイメージを大きく覆す、ダサイ「つう」の姿だったんです(庄井君、ゴメン!)。

そんな強烈な印象を私に植え付けた庄井君。彼は、当時から教育学に情熱を燃やした超優秀な学生でした。一方、私は、ガリガリに痩せた、冴えない学生。ただ、私も教育学の勉強を専門的にしたいと思っていたのですが、山間部の現場の教員になったときのことを考えて、理科を専門にすることにしました。身近な自然を通して、子供たちと接したいと考えたからです。

その後、専門コースが分かれたこともあって、新潟本校へ移ってからは彼との交流が途絶えました。

あれから四半世紀以上も経て、偶然目にとまった地元の新聞記事で庄井君が札幌にいることを知るとは、思ってもみませんでした。

庄井君は、現在、北海道教育大札幌校で臨床教育学を教えているのだそうです。彼の著書『自分の弱さをいとおしむ?臨床教育学へのいざない』 (高文研、ISBN-13: 978-4874983263)は、大学で働く教員にも、科学技術コミュニケーターを目指す人たちにも、子育てで悩んでいる親御さんにも、ちょっと人生に疲れた方達にも、お勧めの一冊です。

この本の中で、庄井君は、こんなことを言っています。

 私は、いま北海道教育大学の大学院に勤めています。この大学院(学校臨床心理専攻)には、子どもの心を深く理解できる教師やカウンセラーになりたいという青年たちがいます。また、幼稚園、小学校、中学校、高等学校など、厳しい現場で働きながら、教職の専門性を高めたいという教師たちがいます。さらには、親として、地域の子ども支援施設の指導員として、切実な問いをあたためながら研究を深めたいという人びともいます。
 講義・演習や教育相談の多くは、夜六時から十時過ぎの時間です。おだやかに「おつかれさま、今日もたいへんだったでしょう」と声をかけ合うのがあいさつです。講義の後は、研究室であつい紅茶をいただきます。吹雪の夜景をみつめながら厳しい教育現場に生きる人びとの声をしみじみと聴きとります。そしてそれを第一線の学術研究と結びつけながら、他にかけがえのない修士論文のテーマをつむぎあいます。
 矛盾の多い現代社会に傷つきながらもなお生きているいまの子どもや親や教師たち。その深い体験から生まれる一回性の声を聴きとること、その当事者のつらさやせつなさに心を寄せながら、冷静に、沈着に、おだやかにそれを理解し、それにもとづく援助のありかたを構想しあうこと。それが私の仕事だと思う毎日です。
   (庄井良信著『自分の弱さをいとおしむ』より)

やさしく、情熱家の庄井君は、今も変わっていないし、その風貌もしかり。

そんな庄井君に、今度、私の悩みを聞いてもらおうかと、思っているところです。もちろん、「憩いのお店」の和菓子を持って。いや、紅茶に合う洋菓子が良いのでは?


57年前の銀塩写真

2007-04-24 01:37:00 | 低温研のことごと

低温研には、あちらこちらに歴史的遺産が存在します。先日も、ふらっと立ち寄った、ある研究室に、目立たずに置いてある写真に気付きました。

195001撮影時期が1950年頃と言うから、57年前の写真です。デジカメ写真も良いのですが、こうしたレトロな白黒銀塩写真も風格があって良いものですね。ところどころ、黄ばみがあったりして、永い年月を感じます。

21名の方が、図書館らしき場所で、研究会か何かでお集まりになったのでしょうか? 写真からは、いろんなことが想像できます。驚いたことに、ほとんどの方がネクタイをしていますね。現在、研究会等で、雪氷系の研究者のなかでネクタイをしている方はどのくらいおられるのでしょう?

195002写真のなかのそれぞれの方のお名前が記録されています。私は生物系の研究者ですので、お名前とご専門が皆目見当がつきません。ただし、楠宏氏はどんなことをされた方なのか、すぐにわかります。

中谷宇吉郎の『極北の神秘・氷島』には、こんな記述があります。

本格的の調査は、1957年から8年にかけて、国際地球観測年の事業の一つとして始められた。ソ連も同時に、氷島観測を開始した。この観測は、1958年以降も、続行されることになったが、アメリカの一つの悩みは、こういう場所に、長期滞在して、研究を続ける研究者が得がたい点にある。一人前の科学者は、どうも細君が承知しないらしい。若くて優秀な研究者は、北極などへ行かなくても、外にいくらでも良い職場がある。
   (中略)
アメリカの研究者から、日本の研究者の協力を求められた。日本には無料(ただ)でもいいから南極へ行きたいという若い研究者が、いくらでもいると言う話をしたからである。

昨年の春、この話が急に具体化して北大の楠助教授と六車助手とが、北極研究所の嘱託として、T3へ行くことになった。楠君は六ヶ月、六車君は一年の予定である。(中略)楠君は、海氷の研究者で、日本の第一次南極観測隊員である。極地の海の観測にも経験があるので適任である。
     (中谷宇吉郎『極北の神秘・氷島』より)

195003この記述からすると、写真の楠氏は、南極観測や北極氷島観測以前と言うことになります。タダでも良いので、北極や南極観測を志願した楠氏(写真後ろ真ん中)のチャレンジ精神が伺える写真ですね。その後、楠氏はどのような研究をなされ、お弟子さんにどんな影響を与えたのでしょうか? 今度調べてみようかと思っているところです。

もうすぐ始まる研究棟大改修工事。この機会に、できるだけ、低温研所蔵の歴史的遺産を発掘し、保存したいものです。


電話嫌い

2007-04-23 01:40:38 | 低温研のことごと

電話は便利な道具ですが、相手の都合を無視する厄介なもの。

実は、ワタクシ、研究所内での電話のやり取りが至極苦手なのです。だもんで、研究所内の方へ何らかの用がある場合、1階玄関ロビー左手にある全所員の名札盤のところへ行き、所在を確認してから、その方のオフィスへ直接伺うことにしています。

相手方がオトリコミ中の時は、さっと身を引くことにしています。また、伺った相手が電話中の時も良くあります。この場合、電話が終わるまで、待ちます。

そして、面談が許された場合にのみ、用件を切り出すのです。相手の顔を見ていれば、その用件に関する反応の様子が分かりますので、電話よりは物事が進みやすいのではないでしょうか。それに、体を動かして、相手の場所まで移動するのですから、効果的なメタボ対策にもなります。

そんな理由から、1階玄関ロビーの名札は、私にとっては必須なアイテムです。以前にも、このブログで綴りましたが、この名札システムは30年以上も続く便利なものです。どんなことがあっても、死守したい!

できれば、顔写真も入れて欲しいと考えています。近い将来、しかるべき機会を見つけて、顔写真システムを提案したいと真剣に考えています。200名程の所内メンバーであれば、この顔写真+名札システムを活用すれば、全所員の顔と名前が一致し、互いのコミュニケーションが容易になるのではないでしょうか?

テイオンケンの皆さんの忌憚のないご意見、期待しております


歳を重ねるということ

2007-04-22 18:48:03 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、土曜日と言うこともあって、午前中ゆったりと自宅で過ごしながら、ふらっと知人のAさんのブログを拝見。その日のエントリーを読みながら、ホロッと涙が出かけた瞬間、携帯電話が着信。ご当人からです。実にタイミングが良すぎます。昼間から、お酒を飲もう、と言うお誘い。

で、真っ昼間から、各種お酒を楽しく味わう。最初は、シャンペンで始まり、ビール、白と赤のワイン。結構飲みましたね。とても、楽しく、ハッピーな昼下がりを共有し、2人で帰宅。

別れ際にAさんが、私の髪をじっと見つめ、「福井さんって、結構白髪が多いんですね」と。そうです、四捨五入すれば、50歳ですから。

帰宅してから、ふと思う。確実に体力、視力、知力、記憶力、気力などが落ちて来ている。院生の皆さんと、山に登っている時は、痛烈に感じます。登り坂で、次第に院生との距離が空いてしまうのです。

正直なところ、難しい年代にさしかかりました。重い仕事は一層増えて来ていますしー。苦手な領域の仕事だってありますしー。どうしましょう。

実は、この半年くらい、若い頃の私(特に20代)と今の私との間でキャッチボールを続けています。20代の私は、今の私に刺々しく痛烈に批判してくるのです。すかさず、今の私は、20代の私に、青臭い若さ故の弱さをたしなめます。そろそろ折り合いをつけて、明るく、前向きな生活にしたいと思っているところです。そのためにも、今を多感に生き、これから大いなる活躍する大学院生と密にキャッチボールをさせていただこうと思うのですが。いかがでしょう。 

上手に歳を重ねていく心構えとして、以下のことを考えています。マイナーであっても良い。地味であっても良い。ただ、かけがえのない存在、無視できない存在でありたいと思うのですが、いかがでしょうか?

さしあたりマイナー宣言しながら、そんなこんなを考えていた日曜日ですが、何だか、オメデタイ気持ちに転じました。


センタク

2007-04-21 01:28:00 | 下宿の思い出シリーズ

内地から遠い札幌の地で、親元から離れて大学院生として、一人暮らしを選択した場合、直ちに様々な障壁に出会います。食事に関しては、大学生協食堂や安価な弁当屋があるので、容易に解決します。しかし、、、、、、

昨日のエントリー「センパイはキビシ~」(←財津一郎風に声に出して読んでみてください)で思い出したのですが、台所もなく、風呂もない下宿生活で問題になるのが、衣類の洗濯です。

ドイツ・ブレーメンでの下宿生活では、下宿のおばさんのアルバース夫人が、親切にも私の衣類をセンタクしてくれました。ブレーメンでは、日本から持ちこんだ衣類が少なかったため、頻繁に洗濯する必要がありましたので、下宿のおばさんのご好意は身にしみました。

さて、院生時代の下宿生活では、洗濯をどうしていたのでしょう? 正直に申しますが、5年間の院生生活で一度も洗濯したことがありませんでした。どうも、私は、洗濯嫌いらしい。

基本的には、「キタキリスズメ」なので、日常生活はなんてことないのですが、実験が問題です。なにしろ研究材料が微生物(バクテリア)ですので、不潔にしていると、無菌操作中に、培地にコンタミ(雑菌などが混入すること。元来は、英語のコンタミネーションcontamination)する危険性が高まります。仕方ないので、衣類を1ヶ月まとめて、新潟の実家へ宅急便で送ることにしたのです。ありがたいことに、母親が洗濯してくれて、また、宅急便で送り返してくれるのです、季節の食べ物と一緒に(たとえば、笹団子とか)。

毎月、汚れた衣類を詰め込んだ段ボールを、下宿の近くのお米屋さんに持っていくのです。東京都目黒区八雲と言う、高級住宅地にあって、とても親近感のわくレトロなお米屋さんでした。ある日、例によってお米屋さんで宅急便の伝票を書いている時のこと。最後に、品名欄に「雑貨」と記入したところ、お米屋さんのおばさんが、「雑貨のわりに、軽い荷物だわね~。正直に、「衣類」って書いたら良いじゃない」と。すっかりばれていたのです。何しろ、下宿おばさんとお米屋さんのおばさんとは、ナガーイおつきあいがあったのです。

多弁なお米屋さんのおばさんには娘さんが2人いて、次女の方が家業を継いでおられました。お婿さんはがっしりした方で、無口なのですが、気の優しいおっちゃん。院生時代、60回以上も利用しているのに、お婿さんは、いつも「マイドー」の一言のみ。なんだか、ジブリ映画『魔女の宅急便』に出て来るグーチョキパン屋のオソノさんの旦那さんのようです。

衣類を自分で洗濯しないことに選択した院生時代も5年で終わり、めでたく、つくば(茨城県)の国立研究所に就職。思い切って全自動洗濯機を購入。洗濯そのものは良いのですが、乾燥が問題でした。つくばは風が強いので、ベランダに干していた洗濯物が吹き飛ばされてしまうのです。せっかく洗った衣類をまた洗濯と言うこともしばしば。

札幌ではどうかと言うと、部屋干しです。空気が乾燥しているため、一人分の洗濯物であれば、一日で乾いてしまいます。ただ、季節によっては、乾きが悪く、バクテリアが繁殖して臭いがすることも、たまーにあります。これを避ける意味で、現在、部屋干し用の洗濯石けんを使用しています。

札幌で暮らしている院生のみなさんは、センタクをどうされているのでしょうか? 手洗濯ですか? コインランドリーですか? 自前の全自動洗濯機ですか? 昆虫生化学グループの階段下に置いてある研究所の洗濯機を利用していますか?

それとも、キキとして宅急便ですか?


センパイはキビシ~

2007-04-20 01:29:00 | 下宿の思い出シリーズ

Photo_64私が大学院生の頃、研究室には、卒研生から、大学院修士や博士の院生、そしてOD(オーバードクターのこと:学位取得後も就職先がなく、研究室に研究生として在籍)まで居て、年齢差は一回り以上。35歳前後のODのセンパイが何人かいらして、優秀な方でも研究職に就くのはきわめて困難であることを容易に理解できました。

センパイたちは学問に関してとても厳しく、ちょっとでもいい加減な議論をしたりすると、コテンパンにやられてしまうのです。私などは、雪国育ちのせいか、根っからの内向的な性格であったため、センパイたちについていけませんでした。センパイにいじめられカツを入れられ、精神的に参りました。とうとう、修士1年の夏には新潟に帰ってしまい、1ヶ月半ほど研究室を休んでしまいました。

夏の終わりの頃、新潟の実家に指導教官から電話がかかって来て、「そろそろ研究室に出てきたら?」と言われ、止むなく、東京に戻りました。

今から思うと、新潟から大都会東京に出て行って、カルチャーショックが大きかったのでしょうね、不器用な人間ですから。

その頃の下宿先は、東京都目黒区八雲の古い木造の家。おじいさん、おばあさんが住んでいて、下宿部屋は3つ。家賃は月12,000円。お風呂も台所もなく、部屋と共通トイレのみの底辺下宿。銭湯に行くお金がなかったので、理学部地下室にあった守衛さん用のお風呂を利用。その利用にあたっては、当時の理学部長(金子洋三郎教授)に交渉し、貧しい院生のために開放してもらいました。この貢献で、私は、理学部風呂利用委員会の初代委員長でした!

さて、かの4畳半の下宿部屋ですが、入り口は施錠もできません。私の部屋は真ん中で、隣の部屋との間はほとんどベニヤ板一枚。プライバシーは皆無と言っていいほどです。

両隣は生物学教室のセンパイです。右隣のセンパイは、集団遺伝学の研究をしているOD。「ひ」と「し」の区別ができない、典型的な江戸っ子。お酒がお好きなセンパイで、よく飲ませてもらいました。飲みながら、いつも説教議論です。当時のセンパイの研究材料は鴨だったのですが、遺伝的解析にはほんのちょっとの肉片があれば十分。研究室の忘年会には、決まって研究材料の鴨が放出され、恒例の鴨鍋大会です(鴨の毛をむしる係は、最下級生)。そのおかげで、すっかり鴨にはうるさくなりました。

左隣のセンパイは、ミジンコの研究をしていた博士課程の院生。ヘビースモーカーの横浜っ子。このセンパイも、やはり、説教議論好きで、頭の回転がすこぶる速いのです。スローな私は、いつも、気がついたら、置いてきぼり。

こんなふうに、大学の研究室でも、下宿でも、24時間徹底的に厳しいセンパイから鍛えていただきました。当時は結構辛かったのですが、今となってはとてもありがたく思っております。遠慮なく議論してくれるのは、こうしたセンパイだけかもしれません。彼らの良さは、後のフォローをきちんとしてくれることです。

あれから、20年が経ち、右のセンパイは四国地方の最も大きな大学の教授に、左のセンパイは東北地方の最も大きな大学の教授になっておられます。

今でも、センパイ-コウハイの関係は変わらないのは良いのですが、20年以上も前の私の恥ずかしいエピソードを私の研究室の院生たちにバラさないでネ、センパイ!


朽ちない南極からのメッセージ

2007-04-19 01:00:00 | 南極

第一次南極地域観測の頃は、日本と昭和基地との連絡はHF帯の電波を使っていました。その時々の電離層の状態によっては、通信が困難なこともしばしばあったに違いありません。

50年が経ち、通信革命により、昭和基地ではインターネットが使えますし、国立極地研究所との間は内線扱いで電話がかけられます。日本にいる家族とは、東京からの市外料金で、容易に電話で消息を確かめ合うことができる時代となりました。

第47次越冬隊の何人かの方は、昭和基地からの情報発信の一つとしてブログを綴っていました。48次も医療隊員の2名がブログで情報発信しており、今昭和機基地で何が起きているかを知る、簡便な手だてとなっています。

070416そんな時代にありながら、昨日、研究所に昭和基地からハガキが2通届きました。驚きとともに、素直にうれしく思いました。そのうちのお一方とは、先日お会いしましたし、もう一人の方とは、ここ最近メールのやり取りを頻繁にしております。なんだか妙な感じですが、彼らの心遣いが、ありがたくて、ありがたくて。

越冬隊員の方の絵はがきは、昭和基地に訪れた2羽のコウテイペンギンの写真でした。私たち夏隊は、昭和基地周辺でアデリーに出会えても、コウテイペンギンには出会えなかったのです。「しらせ」の南極海航海中に、何度か遠目でコウテイペンギンを目撃することが出来ましたが、半径5mの至近距離ほどの近さは到底望めませんでした。

もう一枚は48次の夏隊員の方から。JARE48独自の切手に、昭和基地郵便局のスタンプがしっかり押印してありました。

それにしても、南極昭和基地から、一枚のハガキが朽ちることもなく、幾多の郵便網を巡って、札幌の我が研究所まで、良くまあ、たどり着いたものですね。これも、大切な「南極みやげ」の一つです。


C.Q. C.Q.

2007-04-18 01:17:04 | フィールド

C.Q. C.Q.・・・・・  C.Q. C.Q.・・・・・
C.Q. C.Q.・・・・・  C.Q. C.Q.・・・・・
C.Q. C.Q.・・・・・  C.Q. C.Q.・・・・・
C.Q. C.Q.・・・・・  C.Q. C.Q.・・・・・
だれかいますか だれかいますか だれかいますか どこかには
だれかいますか 生きていますか 聞こえていますか
C.Q. C.Q.・・・・・  C.Q. C.Q.・・・・・
C.Q. C.Q.・・・・・  C.Q. C.Q.・・・・・
送ってみる 送ってみる あてのない呼びかけを
耳をすます 耳をすます あてのない空へ
 (中島みゆき『C.Q.』より)

今日は、C.Q.を一度も送ったことのない無線局長さんの話題です。

その方は、行政系の国立研究所に勤めていた頃、ミッション型の研究開発を行っていました。10年程勤務した後、大学の理学部のセンセイに転職したのですが、研究テーマも一新することに。新たなテーマの一つが、山岳地帯の熱水環境における生態学。携帯電話のつながらない中部山岳地帯で、もしも、調査中に大学院生が80℃を越す熱水に落ちてしまったら、どうしましょう。全身火傷を負った院生をいち早く救急ヘリを呼んで、手当をしなくてはなりません。携帯電話が通じない場所での連絡手段をどうしましょう。

考えついたのが、アマチュア無線。そこで、学生には内緒で、勉強して国家試験を受験しました。会場は、東京都中央区の晴海で、砕氷艦「しらせ」が出航する晴海埠頭の近く。久しぶりの試験で緊張しましたが、なんとか合格。

その後、無線従事者免許証を申請し、野外調査で携行しやすいハンディー型無線機を購入。そして、コールサイン申請と、実際に電波を発射するまでには1ヶ月半ほどかかりましたでしょうか。そして、付与されたコールサインが、7N4XZS。なんとまあ、言いにくいコールサインではありませんか。

7N4XZSさんは、もともと機械音痴なので、無線機の使い方が良くわかりません。チンプンカンプン。なん01_80とか受信方法を理解したところで、439メガヘルツ帯で、なにやら、CQCQとコールせずに、楽しいコミュニケーションをしている方々に気づきました。特に、朝夕の通勤時、20局くらいの常連さんが楽しく交信しているのです。後で知ったのですが、レピーターと言って、435メガヘルツ帯で送信された電波を中継局で受信し、さらに中継局から439メガヘルツ帯で送信するというもの。このレピーターを利用することにより、送信出力の小さなハンディー機でも広範囲に無線交信ができるというシステムです。

レピーターを利用する場合、通常のCQCQとは異なる作法があるのですが、小心者の無線局長は交信の輪に入ることが出来ません。野外で非常時の無線機の使用法を会得するためにも、多少の練習が必要かと思い、レピーター利用者のコールサインを聞き取り、メモすることにしました。

その利用者の中心的役割を演じているコールサインを、コンピュータで検索してみると、その方のホームページにヒットしたのです。早速メールを差し上げ、レピーター利用の作法を教えていただきました。その後、レピーターやレピーター利用者のメーリングリストを通して、無線のイロハを先輩の皆さん(OM)から吸収。特に、JA1RFさんとJR1MAUさんにはお世話になりましたね。

こうした経験は、南極での野外観測にも大いに役立ったそうです。

その後、CQを一度も出したことのない無線局長さんは、ご縁あって、北海道へ転勤。この地は、魅力的な野外が多いのですが、携帯電話が通じないのが難点ですね。携帯電話が通じない野外へ調査に出かける場合、非常連絡手段を用意しなければなりません。アマチュア無線も、まだまだ捨てたものではありません。大学院生の皆さんも、アマチュア無線の免許を取得してみませんか?

さあ、北海道も本格的な野外調査のシーズンを迎えます。いざという時のために、ザックの片隅にアマチュア無線機をしのばせておこう!


本日、生化学特別講義スタート

2007-04-17 00:27:34 | 教育

北海道大学 大学院共通授業「生化学特別講義」が本日よりスタートいたします。場所は、理学研究院5号館2階の大講義室。時間は、8:45~10:15。

単位取得には、それぞれの所属の大学院への履修申請が必要となります。

今日は最初の講義ですので、私が簡単な履修ガイダンスを行います。その後、『細胞膜の環境シグナル伝達』シリーズの第1回目の講義「バクテリオロドプシン」(講師:先端生命科学研究院?加茂直樹)です。


ユーミン症候群

2007-04-17 00:08:49 | 南極

小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ

カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
  (荒井由実『やさしさに包まれたなら』より)

ユーミンのこの歌を聴く度に、南極?ラングホブデでの野外調査を思い出します。

ラングホブデは、第47次南極地域観測隊生物班にとって、最後の大陸調査でした。メンバーは、北大の高野さん、環境省の桝さん、そして私の3人のみです。

3人の野外調査のとき、決まって、桝さんが口笛で『やさしさに包まれたなら』を吹き続けていたのです。

01_77ラングホブの雪鳥沢には、沢にそってコケ群落や地衣類が発達し、風衝地生態系が成立しています。沢伝いに大陸側上流へ上っていくと、大陸氷河に出会います。末端氷河融解水は純水に近いほど清冽です。長大な氷柱。そして、融けかけた氷河。ハンマーでたたいても、びくともしない硬さの氷河。

絶壁の大陸氷河。越えられるだろうか? 越えなければ、小高い丘に横たわる東雪鳥池へ行けないよなあ。危険な場所をさけながら、氷河を登っていきましょう。

ヨイショ、ヨイショっと。汗をかきかき、ひたすら登る。「高野さん! 桝さんはどこですか?」と、私。

02_43「あれっ?桝さん、まだあんな所にいますよ。マスさ~ん、こっち、こっち」と高野さん。桝さんは、途中、環境省のお仕事をされているらしい。

しばらくして、桝さんがいつものように『やさしさに包まれたなら』の口笛を吹きながら、到着。やれやれ。

05_6我々の調査で大陸氷河の上を歩くことは、これが最後ですね。それでは記念写真。パチリ!(←それにしてもコキタナイ格好していますね)

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ほれ、あれを見て! 大陸氷河湖の東雪鳥池ですよ! 大陸氷河が湖01_78に落ち込んでいます。湖水の透明度も良く、湖底の藻類群落までよく見えます。あんなに栄養塩濃度が低いのに、よくまあ、藻類が繁殖しますよねえ。

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03_22帰りは、往きよりも何十倍も記憶に残っています。実は、恐怖のクレバス越えがあったからです。青白く、奥底まで落ち込んでいるクレバスを飛び越える瞬間は、心臓が破裂しそうでしたね。でも、桝さんは口笛でユーミン。

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01_79あれから1年が経ち、高野さんも私も札幌でフツーに暮らしていますが、2人ともしばしば「ユーミン症候群」に悩まされています。先日のことですが、高野さんはユーミン症候群様の症状が出てしまいました。トリガーは、朝日新聞のユーミン(JARE45同行記者)なのにね。

冗談はさておき、大人になると、夢がいろんな意味でかなえられにくくなるもの。45歳を過ぎた、冴えないメタボ系中年オヤジでも、「南極での野外調査の夢」を実現することが出来ました。本当に、奇蹟です。

そう言えば、昨晩、札幌駅前にある○○○○デパートの地下食品売り場のお魚コーナーでのこと。例によって、若手キョウインのEさんと、「鯵は半額になっているけれど、ニシンはまだ正価のままだね。もうちょっと待とうか」とシュフ度の高い日常会話。Eさんも、私も、本当に南極に行ったことあるのかな? そろそろ、研究所を飛び出し、フィールドに出かけたいなあ。

そうだ、今晩は、ユーミンを聴こう。

<追記>
ただし、メタボ系中年オヤジの夢を叶えるには、周りの皆さんの大きな犠牲のもとに成立することを、肝に銘じる必要があります!感謝。


シュフ度

2007-04-16 00:07:53 | 低温研のことごと

低温研前18:43発。これが、構内循環バスの最終。先日、最終バスを待っていると、若手キョウインのEさんと一緒になりました。バスに乗り、終着の事務局前で降りると、Eさんも私もJR札幌駅方面へ向かいます。

歩きながら、Eさんにお尋ねしてみました、「Eさん、夕食はいつもどうされているんですか?」と。

「この時間ですと、駅前の○○○○デパートの地下食品売り場で魚が半額になるんですよ。安売りの魚を買って、家で調理して家族に食べさせます」と、Eさん。

Eさんのシュフ度は、私を遥かに越えています。私の方は、「同じデパートの地下食料品売り場で、半額になった弁当を買って夕食にします」と言いかけましたが、止めました。

36501そんなEさんのことを思い浮かべ、そして、「今晩の煮物」のエントリーに対するコメントを受け、早速、主婦の友社の「365日のおかず百科」(1,800円)を書店で購入して来ました。ページをめくっていると、楽しくなり、あれもこれも作って食べたくなります。

ページをさらにめくって、4月15日のおかずは何かな? 「とうふともやしの炒め物」、「きゅうりと鶏肉の甘酢いため」と「もつとこんにゃくの煮物」でした。うーん、そうですか、なかなかのおかずですね。と言うことで、昨晩の夕食は、前の晩の残りの煮物とソーメンとすることにいたしました。

ああ、Eさんのようにもっとシュフ度を上げなくては。

流動化の歯止めが利かない現代、生き残る術として、老若男女を問わず「シュフ度」をアップさせておくことは重要かもしれません。神奈川大学の橋本宏子先生の教えもそうです。女子度とか男子度なんかをアップするよりも、シュフ度アップを優先させたいと思うのは、老い加齢を感じ始めたせいでしょうか。

<追記>
橋本先生からメールをいただきました。とても、ありがたいことですね。
先生もご活躍の様子、何よりです。