研究者にとって、師からの恩をいかにしてかえしていくのか?
私も、そんなことを考える年代になりました。さて、どうしましょう?
第一に、研究分野において師を乗り越え、その分野を発展させること。
第二に、後継者を育てること。
最低限、上記2点を達成しようと思います。これだけでも大変ですから、師は弟子の『その後』を見守ってくれていることでしょう。弟子としては、そのための不断の努力を惜しまないこと、それに尽きるのではないでしょうか。
我が恩師も古希を迎えます。そこで、古希のお祝いを新宿で行いました。40名ほどのOG・OBが集い、とても楽しく、また懐かしい会となりました。
思い起こせば、恩師に対して数々の不義理をしています。以前のエントリーでも告白していますが、還暦のお祝いも企画しませんでしたし。また、その後も大きな不義理をしてしまいました。
定年退職後、無理を承知で、恩師に研究室に留まってくれるようお願いいたしました。客員教授として、研究室の学生指導に関して私の至らないところをカバーしていただきました。
恩師の凄さは、学生の実験の混み合わない早朝の時間帯に黙々と実験をし続けたことです。65歳を過ぎてからも、単離が困難とされる嫌気性細菌の新種を発見したのです!
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古希の祝いの会の最後、恩師はスピーチで淡々と語ります。
「先月、最後の論文が受理されました。これで、研究室を完全に去ります」と。
この一言、グッと胸に刺さるものがあります。恩師からは多くのことを学んできたので、これからは、その教えを若い人たちにお伝えしていきたいと思います。
海洋物理学者である若土正曉先生が昆虫生理生化学者の茅野春雄先生から英語論文の書き方の手ほどきを受けたと言うエピソードは、先日お伝えいたしました。
では、茅野春雄先生はどうだったのでしょうか?
先生の「昆虫の謎を追う」では、こんなエピソードが紹介されています。少し長いのですが、ここに引用いたします。1955年頃、東京都世田谷区深沢で繰り広げられたエピソードです。
都立大学での六年半は、暦の上では長いと言えないだろうが、私の人生にとっては、単に仕事だけでなく、研究者として自立するために、最も重要な期間であった。
一つの仕事は、最後に論文として発表することによって終わり、そこから次の仕事が始まる。都立大学に来るまで、私は英文で三つばかり論文を書いていたが、すべて国内雑誌や大学の紀要であった。その英文はほとんど藤井先生がかいてくれたものだった。私の英語は下手を通り越して、箸にも棒にもかからないという表現がぴったりだっただろう。
團さん(発生生物学者)は、戦前アメリカに長い間滞在し、私にとっては(多分、私ばかりではなかったと思うが)、團さんと言えば、英語の達人、尊敬と羨望の対象であった。團さんはいつも言っていた。「はじめが大事だ。一番初めの論文を何処に出すかによって決まる。初めから国際誌を目指せ」。都立大学が新設された時、あえて理学部紀要を作らなかったのも團さんの意向によると、私は聞いていた。
(中略)
私が都立大学へ行った頃、(團さんから)「どうして、外国のジャーナルに出さなかったんだ」と、まず言われた。カイコの卵休眠の仕事が始まってから、私は全部で七編(Natureの短報も含む)の論文を書いたが、全部團さんに英語を見てもらった。
いくら脳みそをしぼっても、駄目なものは駄目。ろくな英語が書けるわけはない。恐る恐る部屋をノックし、原稿を差し出す。「そこへ置いて行けよ」と團さんは一言だけ。團さんが差し出す机の上は、論文の原稿がうず高く積まれていた。生物教室ばかりでなく、あちらこちらから英語直しを頼まれた原稿の山だった。一体いつ順番が回ってくるのか、私は不安で一杯だった。廊下で團さんとすれ違っても一言もない日が続く。ようやく声がかかった。しかし、ものの五分と経たないうちに團さんの顔は険しくなり、「君、英語はいつどこで習ったの」。私は戦中、戦後の有り様を、英語はenemy languageだったことを、精一杯説明してみたが、そんなことは團さんは先刻、十分承知のはずだったと思う。「君の英語は駄目なのはよくわかる。だが、これはどうせぼくがなおしてくれるんだから、という感じだね。下手は下手でいいから、君の努力を僕が感じ取れるような原稿にして来給え!」 それで、第一回目は終わりだった。
それこそ、身の縮む想いとはこのことだ。文字通り、一ワード、一センテンスずつ、一回に原稿が一枚か二枚進むのが限度だった。なおしてもらった分は、すぐタイプして持って行く。しばらくすると、また声がかかる。私は、すぐ先に進んでくれるのかと思った。ところが、團さんは、この前直して折角タイプを打った所を、また初めから直すのだ。「君は先に進みたいんだろう。それは間違いだ。一度直したところを通読して、文章の筋が通っているかどうか、必要なら、何度でも直す」。こういう次第だったから、一つの論文に最低でも三ヶ月、あるいはそれ以上かかっただろう。ただ、一つだけ例外があった。Natureに単報を投稿した時だ。私も驚くほどのスピードで直してくれた。「とうとうやったね」と言って、この時ばかりはすこし褒めてくれた。
こうして、毎回毎回、噛んで含めるように、英語らしい英文を、徹底的にたたき込まれた。今でも印象的だったのは、論文の中にsurprisingとかunexpectedとかいう単語は原則として使うべきでないと、きつく言われたことだ。「これは、君もそうだが、人間の思い上がりだ」と。こうして、六年半、私は英語の論文を書くことの大切さ、難しさを團さんから学んだ。そして、同時に、多くのことも。
なるほど、茅野先生も最初から国際誌に受理されるような英語論文を書けた訳ではなかったのですね。
大学院博士課程を修了して学位を取得しても、大学の教員や研究所の研究員になれたからと言っても、自立した研究者とは言えません。自ら実験計画を立て、結果を得て、最終的に科学論文(国際誌)を書けるようになって、初めて自立した研究者です。そのためにも、シニア研究者は若手の研究者を育てていかなければなりません。
低温科学研究所が、若手研究者を常にエンカレッジし、育てる教育研究機関であり続けて欲しいものです。
春の訪れは、なんだかワクワクします。新しい何かが始まりそうで、期待に胸が膨らみます。
新しくなった研究棟は、実に明るい!その一方で、低温研らしい伝統も引き継いでいる。その一つが玄関ホールの壁。海氷の垂直断面の偏光像(海氷結晶)をタイルでイメージした壁面となっています。玄関に入った瞬間から低温科学への誘いです。
本日、東京から贈り物が届きました。茅野春雄先生からで、先生の自叙伝『昆虫の謎を追う~あるナチュラリストの奇跡』(学会出版センター)を頂いたのです。早速、ページをめくってみましょう。この本には、こんなくだりがあります。少し長いのですが、引用いたしましょう。
海氷が出来る時、当然、海水塩分の濃縮が起きる。この濃い塩分を含む海水をブラインという。このブラインが、氷の表面からすごい勢いで海水に流れ落ちてくる現象を、若土君はシュリーレン撮影で捉えた。私はその見事な写真を見て「すごいもんだなあ」と感心した。
彼はそのとき言った。「南極や北極やオホーツク海の海氷から出るブラインが、海の中・深層海流の源流になっているのだと思う。これを確かめるのが僕の夢だ」。
こういうのを研究者のロマンティシズムというのだろう。まったくの門外漢の私にも、彼の夢はすぐ伝わった。しかし、こんな好い仕事が「低温科学研究所報告、物理編」に報告されているだけだと知って落胆した。
(中略)
これはすばらしい仕事に違いない。今度こそ、この分野の国際誌に投稿すべきだ。都立大学時代の自分を想って、他人事ではなかった。
彼は決心して英語で論文を書き出した。私が英語を直す約束をしたからだ。藁半紙に手書きで書いた分厚い原稿が出来上がった。投稿するジャーナルは、アメリカで出しているJournal of Geophysical Research (J.G.R.)に決め、私が直したタイプ原稿は、若土君が知り合いのワシントン大学のドクター、マーチンに最終的に見てもらうという条件で、引き受けた。その前に、J.G.R.に一寸目を通し、この分野ではどんな論文の書き方をしているのか、一応頭に入れた。約束は守らなければならない。彼と差しで、一行一行、ただし数式は全部飛ばして、難業が始まった。三ヶ月近くかかった。最後の一週間は、腹を据え、ほとんど一日中つぶし、胃が痛くなるのを初めて経験した。
こうして出来上がった原稿はマーチンに送られ、やがて送り返されてきた。英語はそれほど直されていなかったと記憶している。
J.G.R.のレフリーの一人からは、長すぎるから短くするよう言ってきた。少しだけ削って、再投稿した。受理まで随分待たされた。アクセプトの手紙が届いたとき、彼は3階から駆け下りてくるなり、ちょうど天秤の前に座っていた私の肩を思い切り叩いた。彼の腕力はすごい。何しろボートで鍛えた腕だ。
記念にもらったその9頁の論文の別刷は、今でも私の手元にある。むろん、私の名前は何処にもない。謝辞に書くというのも断固断ったからだ。ただし、祝杯の酒は十分馳走になった。
若土君は、それ以来、論文はすべて国際誌に出すことになった。むろん自力で。そして、彼が描いていた「ブラインの中・深層海流の源流説」は、いまや海洋学では広く認められている。
これは、1975年頃のエピソードですから、30年前のこと。その舞台は、改修工事前の研究棟の1階と3階。その若土先生もこの3月で定年退職されました。
改修工事落成記念銘菓『北の地の春を待ちわびる』の一つである『流氷』を頬張りながら思う。改修後の研究棟、所謂、『白い瀟酒な建物』のオフィスは、明るく、冷暖房完備で快適です。しかし、快適すぎて、オフィスの中に閉じこもっていては、低温科学研究所らしい学際研究の発展が望めなくなるのではないだろうか。オフィスは快適かもしれませんが、扉を開け放ち、常に様々な情報が行き交い、また、異分野の研究者間で新しいサイエンスを議論するよう、心がけようではありませんか。
内緒話(?)ですが、先月末、東京の吉祥寺で、茅野先生と若土先生はお酒を酌み交わしたそうです。