日々の雑感記によるヘボ・マイ趣味紹介です。
ダッペの悠友ライフ
「上野国・国分寺跡」に行き、古代ロマンを味わいました
先日、歴史に明るい友人に教えてもらって、群馬にある「国分寺」を見に行ってきました
群馬県地域は古代以来「上野の国(こうずけのくに)」と呼ばれており、奈良時代の天平13年(741年)時の天皇・聖武天皇は国ごとに僧寺と尼寺を造ることを命じられた折、現群馬地区と前橋市との境近くに「国分寺」として創建されました
「国分寺」は、仏教の力によって災害や疫病や外敵防止、五穀豊穣を祈り、国家の安泰を計る鎮護国家の思想に基づく事業として全国68の国々で建てられたそうです
「国分寺」のあるこの地は榛名山、赤城山が北西から北東に間近にそそり立ち、西方は浅間山から妙義山、みかぼ山系が見渡せる「上野の国」のまさに中心地をうかがわせます
「国分寺」は歴史の波の中、次第に朽ちて遺構跡のみしか残っていなかったのですが、1926年(大正5年)史跡に指定されて以来、発掘調査・整備が進み、現在七重塔、金堂の基壇が復元され、更には往時の築垣の一部も古代工法で復元していました
訪れたこの日は暖かな陽射しの日で、辺りは広々とし、1300年前もかくばかりであったのかなと思わせました
読みにくいのですが、1926年史跡に指定された記念石碑です (右奥:七重塔基壇)
歴史書(=続日本紀)によると、旧碓氷郡や旧勢多郡の豪族の協力により、750年頃に建てられたようですが、ここの国分寺は全国でも最も早い時期に姿が整ったものと云われているそうです
上野国分僧寺の広さは、東西約220m、南北約235mの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていたようです
そして、その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60.5メートルもあったといわれる七重塔が建てられていたと考えられています
古代工法(版築(はんちく)工法)で造られた築垣
この築垣は、土を搗き固めたものですから、1㎡あたり4tもの重さがあり、又その費用も200万/枚もかかったといいますから、復元も大変な工事です
右手前は復元された七重塔の基壇 向う中央に見えるのは、復元された金堂の基壇 です
上野国分寺の発掘調査は現在でも進められ、新しい事実が分ってきているようですが、これらの発掘調査成果の紹介をするためガイダンス施設が作られていました
施設には調査したものに基づいて復元された模型が展示されていました
創建時の上野国分寺想像図
二十分の一で復元された七重塔模型
約60mはあったと言われる七重塔の高さは今でもとても立派な高層建築物です
重機も無かった1300年前、残った基壇の石から見ても巨木を立てて組み上げたであろうその建築技術は想像すらできません
本当に完成したのでしょうか 歴史に残った真実から割り出したものですから、そのまま信用すれば、人の知恵は今も昔も変わらず素晴らしい力を秘めていますね
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