三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

関東大震災での加害を忘れるな

2014-09-01 23:37:48 | 歴史認識・社会論
 今からちょうど91年前の1923年9月1日、関東大震災が発生し、多くの人が亡くなった。ただし、その死者の中には、天災によるのではなく、他者に殺された人々も多数含まれていた。そしてその犠牲者の多くは、在日朝鮮人だった。

 この事については、当ブログ2013.10.8「関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史から学ぶ」で取り上げた。参照されたい。

 本日2014.9.1、「関東大震災・朝鮮人虐殺フィールドワーク~横浜の虐殺地と追悼の地を訪ねる~」に参加した。案内・講師は、この問題を調査・研究し続ける後藤周さんが務めた。参加者は、30人くらいだったと思う。

 京浜急行・黄金町(こがねちょう)駅の前に13時半に集合し、路線バスを乗り継いで以下の場所を訪問した(*全て神奈川県横浜市)。

①久保山墓地内の「殉難朝鮮人慰霊碑」(西区) *冒頭の写真

②多くの在日朝鮮人が虐殺された中村橋付近(南区)

③宝生寺内の「関東大震災韓国人慰霊碑」(南区堀ノ内町)

 雨が降る中、みな熱心に講師の話を聞き、学習し、黙とうした。

 ②の中村橋の上から周囲を見渡すと、古い街並みが残っていて、91年前の街並みが想像できるような気がした。「この近辺で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたのか・・・」 しばし物思いにふけった。そして、当時の目撃者の証言記録を読んだ時の記憶が蘇(よみがえ)ってきた。

*以下(1)(2)は、その一部。市民団体がかつて作成した資料からの転載であり、原典に当たっていない。故に、細部の正確さは保証できない。

(1)美田賢二郎氏の証言「振りおろされたトビ」より(月刊『潮』1971年9月号掲載)
 なにしろ天下晴れての人殺しですからねえ。私の家は横浜にあったんですが、横浜でもいちばん朝鮮人騒ぎがひどかった中村町に住んでいました。

 そのやり方は、いま思い出してもゾッとしますが、電信柱に針金でしばりつけ、なぐるける、トビで頭へ穴をあける、竹ヤリで突く、とにかくメチャクチャでした。

 何人殺ったかということが、公然と人々の口にのぼり、私などは肩身をせまくして、歩いたものだ。

(2)田畑潔氏の証言「真っ赤な川」より(月刊『潮』1971年9月号掲載)
 横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった。木賃宿には朝鮮人労務者が多く住みつき、数百人からいたように思う。

 この近くの友人宅を訪ねていて地震にあった私は、だから、世に有名な朝鮮人虐殺の実態を、この目でつぶさに目撃することになった。二日朝から、朝鮮人が火を放けて回っているという流言がとぶと、ただちに、朝鮮人狩りが始まった。

 (中略)グルリと朝鮮人をとり囲むと、何ひとついいわけを聞くでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。(中略)頭をこづくもの、眼に竹ヤリを突き立てるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの・・・・・・朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。

 こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、倉木橋の土手っぷちに並んで立っている桜並み木の、川の方につきだした小枝に、つり下げる。しかも、一本や二本じゃない。三好橋から中村橋にかけて、大典記念に植樹された二百本以上の木のすべての幹に、血まみれた死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、リンチを加える・・・・・・人間のすることと思えない地獄の刑場だ。

                       ≪「証言」の引用終わり≫

 私たちは、こういった歴史をまず「知る」ことから始めなければならない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 慰安婦問題で「朝日新聞」攻... | トップ | 内閣改造でも同じ「安倍首相... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史認識・社会論」カテゴリの最新記事