学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

マックス・ヴェーバー生誕150年

2014-04-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月10日(木)12時22分44秒

「歴史学と『日本人論』」には、

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 ですからダビデ王の場合の神と人間の倫理的な緊張関係というのは、早くいえばイスラエルにおける個と個ですね。個人と個人の人間関係の一つの緊張を示しているということを考えますと、ご存じのマックス・ウェーバーが『古代ユダヤ教』を書いたあの中で指摘しておりますが、イスラエルというのは、私もウェーバーの受け売りなんですけれども、一つの誓約共同体であって、その古代ユダヤ教をつくったのはエルサレムという都市ですね。都市国家なのだということを、彼は一つ指摘しておりますけれども、このことを考えますと、日本との違いの根拠がどこにあるかということが、若干展望されてくるわけです。
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などという記述もあります(p306)。
石母田氏の著作を丁寧にたどれば、戦後、石母田氏がウェーバーをどのように受容したかはある程度明確にできそうですが、戦前は難しいですね。

ちなみにマックス・ウェーバーは1864年4月21日生まれなので、そろそろ150回目の誕生日です。
検索してみたら、岩波書店では「マックス・ヴェーバー生誕150年」と銘打って、著書の紹介をしていますね。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/donna14/top3.html

また、みすず書房からは去年、ヴォルフガング・シュヴェントカー氏の『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』という本が出たそうです。

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1984年、ドイツのJ.C.B.Mohr社から『マックス・ウェーバー全集』の最初の数巻が刊行されたとき、出版部、編集者、スタッフたちが驚いたのは、出版部数の三分の二がドイツでもなく、ヨーロッパでもアメリカでもなく、日本で売れたという事実だった。このような瞠目すべき事態を生んだ日本の社会科学の事情、ウェーバーと日本との親和性とは、いったい何なのか。
(中略)
そして戦後、大塚久雄を中心に丸山眞男、川島武宜らの影響のもと、マックス・ウェーバーの著作の翻訳や研究書の数はどんどん膨らんでゆく。1964年、500名が参加した東京大学における「マックス・ウェーバー生誕百年シンポジウム」は、その象徴的場であったろう。そこには、戦後における日本社会の分析や道筋の模索、マルクスとの対抗あるいは相互補完の可能性など、さまざまな思いや制約条件が重なっていた。さらに安藤英治、内田芳明、折原浩から山之内靖まで、ウェーバーの読まれ方は批判的に継承されてゆく。

http://www.msz.co.jp/book/detail/07709.html

この「マックス・ウェーバー生誕百年シンポジウム」の記録は大塚久雄編で東大出版会から出ていて(『マックス・ウェーバー研究』、1965年)、その中の丸山真男「戦前におけるヴェーバー研究」と堀米庸三「歴史学とウェーバー」を読んでみましたが、戦前のマルクス主義の歴史学者にとっては、ウェーバーはなかなか難しい存在だったようですね。
戦前の思想の動向はめまぐるしく変化するので、時期によって相当違いはありますが、ウェーバーなど典型的なブルジョワ学問として排斥する人も多く、仮に個人的には影響を受けていたとしても、なかなか公言しづらい雰囲気もあったみたいですね。
ま、石母田氏個人にとってどうだったのかは今のところ全然分かりませんが。
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「私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども」

2014-04-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月10日(木)09時16分35秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
「今西さんという最近の人」は石母田氏の講演記録での表現です。
国会図書館サイトで検索してみたら、「罪意識の基底--源氏物語の密通をめぐって」(東京大学国語国文学会編『国語と国文学』1973年5月号)という論文みたいですね。
石母田氏は少し後で、

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学者はいろいろ詳しく調べてくれるのでありまして、『源氏物語』には罪という言葉が一八〇回出てくるそうです。私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども、学者というのはありがたいもので、一八〇回出てくる。これは物語のなかで、圧倒的に源氏というものが罪というものを意識した証拠である、というので、それもごもっともだろうと思います。
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と書かれていて(p307)、ここも注記はないのですが、今西氏の同じ論文で間違いないようです。
それにしても「私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども」「それもごもっともだろうと思います」というのはずいぶんシニカルな表現ですね。

今西氏は『増鏡』第五「内野の雪」の冒頭場面から、同氏にとっては極めて論理的な推論を始める訳ですが、西園寺へ向かう道には「九十九折」はないのですから、ごくごく常識的に考えれば、自分の『源氏物語』についての教養をひけらかすのが大好きな『増鏡』の作者が、西園寺と『源氏物語』の「北山のなにがし寺」を重ね合わせて楽しんで書いているのだろうな、で済んでしまう場面ですね。
実際、今西氏以前の源氏学者で、今西氏のような変な疑問を抱いた人はいないのですから。
まあ、現代の国文学者というのは本当に奇妙な人が多いですね。
2008年に議論した当時、筆綾丸さんが書かれた「なぜ、こんなことに、それほど情熱を傾注できるのか」という禁断の疑問は永遠に解けそうもありません。

「今西論文その3、仮説の九十九折」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「過去の人」 2014/04/09(水) 22:19:36
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E7%A5%90%E4%B8%80%E9%83%8E
よく覚えていますが、今西祐一郎氏とは、この人ですね。
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『蜻蛉日記』が専門で、同書は藤原兼家の協力を得て書かれた、兼家家集の宣伝のためのものだという説を唱えている。
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こんな説を唱えて何のつもりなのか・・・。
現在、国文学研究資料館の館長とありますが、ということは、あの丸島和洋(敬称略)の所属長ということですか。

保立道久氏は変な表現をよくしますが、「今西さんという最近の人」とは意味不明です。最近を過去に置き換えれば、日本語らしくはなりますが。
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