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「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その4)

2018-10-30 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月30日(火)10時41分28秒

ここで盗作疑惑の具体的内容を見てみると、山本和加子氏の『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010)によれば、一番問題となった記述は、

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工女衆がよく落ちたのもみんなその辺でございます。みんな帯をといてつなぎ合わせておろしてやり、それで救いあげたこともございましたが、悲しかったのは、落ちてゆく悲鳴が途中雪の中でプッツリ消えて、その後何のもの音もきこえなくなる時でございます。国府村のつやさというシンコがおちた時のことは忘れられません。それは美しい少女でございましたが、あの落ちていく時の少女の悲鳴が今でも私の耳に残っているのでございます。
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だそうです。(p218、「つや」に傍点)
これと蒲幾美氏の『飛騨ろまん』(講談社、1984)所収の「野麦峠」を比較すると、

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 ある年には娘の一人が雪に足をすべらして谷へ落ちたのでございます。持ち合わせの長い細引きもありませんので、窮余の一策を講じ、女衆の帯を解かせて、それを何本も結び継いで谷底へおろし、ようやく救い上げたこともありました。ある年には千仞の谷へ転げ落ちて、遂にこと絶えた一人もありました。雪の谷底から次第しだいに弱くなっていった悲鳴が、今もなお耳に残っております。国府村のつやさというかわいい顔のしんこでございました。
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という部分(p12、「つやさ」に傍点)が、内容のみならず「ございます」調の一人語りという点でもよく似ていて、というかそっくりで、しかも蒲氏によれば谷に落ちた「つや」の名は蒲氏がつけた名なのだそうです。
従って、山本が蒲氏の「野麦峠」を参照していたのは明らかであって、取材対象が同じだったから偶然似てしまったという言い訳は通じない訳ですね。
私も蒲氏の「野麦峠」を読むまでは、失礼ながら田舎の偏屈な物書きが山本に言いがかりをつけたのかな、などと思っていたのですが、これでは蒲氏が山本の盗作を疑い、朝日新聞や産経新聞、また『週刊サンケイ』の記者がその情報を信頼するのも当たり前です。
さて、山本が「朝日、産経新聞の関係者、松本の知己関係者などなどへ送った」という「上申書 「野麦峠」と私の立場」の内容は、和加子氏の要約によれば、

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自分はもう何年も野麦峠を取材してきていて、たくさんの元工女のおばあさんたちから、雪の峠越えで足を踏みはずして谷へ落ちてしまった話や、みんなで帯をといてつなげて、落ちた工女を救いあげたという話を聞いている。蒲さんも工女さんから聞いて知った話であって、そこは蒲さんの創作とは一概に言えない。しかし蒲さんが名づけたという「つや」の名を私が無断で使ったことはやはり大ミステイクであり、「つや」という名が厳然たる盗作の証拠になってしまった。だが、そこを強調することで自分の作品を「盗作された、盗作された」と大げさに言わなくてもいいではないか。同じ野麦峠という場所で、同じような体験者から取材したのだから……。
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というものだったそうですが(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p224以下)、まあ、これでは、「法務省に勤める温厚な官吏で、高橋翠という人」でなくとも、「こういうものをいくら書いても何の効果はない」と言わざるを得ません。
ところが、高橋氏からどのようなアドバイスがあったのかは分かりませんが、山本が盗作疑惑勃発の翌1967年(昭和42)3月2日に「東京都と岐阜県の地方検察庁に朝日新聞社、産経新聞社を告訴」(p226)したところ、産経新聞社は告訴と同日の3月2日付の内容証明郵便で、

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 当方で種々検討致しました結果、文藝春秋昭和四十一年九月号所載の貴殿の作品「野麦峠を越えた明治百年」は、長年にわたる貴殿の苦労と深い取材の積み重ねであり、立派な著作であるとの結論を得ました。当方の記事により多くの誤解を生みご迷惑をおかけしている点お詫びいたします。
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という謝罪状を送ってきて、産経新聞社との間では、問題はあっという間に解決してしまったのだそうです。
ちょっと不思議な展開ですが、この後、産経新聞社は山本の著作を一冊も出していないので、面倒くさい人との関係をサッサと断ち切ったということなのかもしれません。
しかし、天下の朝日新聞社はそれほど甘くはありませんでした。
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