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「峠の除幕式」とライシャワーからの祝辞

2018-11-03 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月 3日(土)12時38分47秒

『「あゝ野麦峠」と山本茂実』からあまり長々と引用するのも気が引けますが、たまたま今日は「文化の日」なので、ちょうど半世紀前の今日の出来事を同書から少し紹介してみます。

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峠の除幕式

 昭和四十三年十一月三日文化の日、野麦峠山頂で「あゝ野麦峠の碑」の除幕式が執り行われた。野麦峠の麓、岐阜県高根村(旧名)と長野県奈川村(旧名)両村で準備を進めていたものである。【中略】
 高根村では頂上のどの位置に碑を建てるか、昔あったというお助け小屋を復元すべく準備を急いだ。奈川村は碑にふさわしい自然石を捜すことに大わらわで、捜す範囲を広げてやっと格好の形の大石が見つかったという。縦一・五メートル、底辺の幅一・八メートルの丸みをおびたどっしりした石である。表の文字「あゝ野麦峠」は『朝日新聞』の「天声人語」の執筆者、岐阜県出身の荒垣秀雄が書いた。柔らか味のある美しい文字である。彫りは松本の長崎屋石材店があたった。
 野麦峠は熊笹の海で道らしい道はない。建碑の石をどのように運ぶか検討し、急遽、大動員をかけて新しい道ができた。今まで顔を合わせたこともない二つの村の共同村おこしであった。
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ということで(p248)、「今まで顔を合わせたこともない二つの村」を結びつけて「熊笹の海」に新しい道を作り、巨石を運んで記念碑を建立するという「共同村おこし」を実現させたのはもちろん朝日新聞ですね。
その朝日新聞の役割を象徴するのが「天声人語」の荒垣秀雄が揮毫した「あゝ野麦峠」の「柔らか味のある美しい文字」です。

「ぶら~り♪ 春の信濃路(ああ 野麦峠)」
https://4travel.jp/travelogue/10670547

朝日新聞も別に山本茂実との間の盗作トラブル処理のためだけに記念碑を建てようと思ったのではないのはもちろんで、明治百年にふさわしい企画、それも当時、政府・自民党が進めていた「明治百年記念式典」等の官製イベントとは一線を画する、「リベラル」で「進歩的」な朝日新聞に相応しい企画を求めていた訳ですね。

「明治百年記念式典」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%BC%8F%E5%85%B8

そして、発端に山本とのトラブルがあったとはいえ、『あゝ野麦峠』はまさにこの朝日新聞の方向性にぴったりの企画だったはずです。
さて、「峠の除幕式」の様子はというと、

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 峠の上には大勢の人たちが集まっていた。高根村、奈川村役場関係者、県会議員、学校関係者、長野の友人、東京の友人、繊維労連の人々、そして元工女の飛騨から来たおばあさんたち六、七人、彼女たちはきょうの立て役者である。さかんにカメラのフラッシュがそこに集中する。
 青い空に、白装束の神主、碑の白い布がひきとられ「あゝ野麦峠」の文字がくっきりと浮かびあがる。県会議員、市会、村会議員、名士の挨拶、日本繊維労連中央執行委員長小口賢三の白い和紙の祝辞が朗々と読み上げられた。
 次に山本が出て、元駐日アメリカ大使で親日家のエドウィン・O・ライシャワーから来たお祝いの手紙を紹介する。これは事前に山本が、ライシャワー宛てに野麦峠のこと、峠の上に記念碑を建てたことを伝え、一言のご感想をいただきたい旨、願ったからである(アメリカと日本の絹糸は明治以来深いつながりがある)。
 ライシャワー氏の手紙はこんな内容だった。

 私は『あゝ野麦峠』という近刊書と初期の製糸産業に大変興味を持ちました。
 私の妻の祖父新井領一郎は群馬県の絹の生産地から明治の初めにやってきて興味ある役割を果たしました。ニューヨークに来てアメリカ向けの絹の貿易に従事した最初の日本人です。─日米間の発展の一断面として、可能なかぎり製糸産業に苦しみぬいた工女を通してあなたの接近は麗しい原動力です。─記念碑の建立が成功することを望みます。

 除幕式に"花を添える"贈り物であった。そして最後に山本の挨拶。【後略】
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という華やかなものだったそうです。(p249以下)
「日米間の発展の一断面として、可能なかぎり製糸産業に苦しみぬいた工女を通してあなたの接近は麗しい原動力です」はいささか文章が乱れていますが、原文のままです。
まあ、私も「事前に山本が、ライシャワー宛てに野麦峠のこと、峠の上に記念碑を建てたことを伝え、一言のご感想をいただきたい旨、願った」ことを疑う訳ではありませんが、小学校を卒業しただけの山本は英文を書けなかったはずなので、ライシャワーとの間をとりもったのは朝日新聞でしょうね。
ライシャワーからの手紙は「峠の除幕式」のみならず、これを報じる朝日新聞の記事の格調も高め、"花を添える"ものであったはずです。

Edwin Oldfather Reischauer(1910-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BBO%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BC
新井領一郎(1855-1939)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E9%A0%98%E4%B8%80%E9%83%8E
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